西山厚(にしやま・あつし)さん
1953年、徳島生まれの伊勢育ち。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、帝塚山大学客員教授、奈良国立博物館名誉館員、東アジア仏教文化研究所代表。日本の歴史と仏教について学び、奈良国立博物館の学芸部長として「女性と仏教」など、数々の特別展を企画。奈良と仏教をメインテーマとして、人物に焦点をあてながら、さまざまなメディアで、生きた言葉で語り、書く活動を続けている。主な著書に『仏教発見!』(講談社現代新書)、『僧侶の書』(至文堂)、『語りだす奈良 118の物語』『語りだす奈良 ふたたび』『仏像に会う 53の仏像の写真と物語』(いずれもウェッジ)など。
なんとしてもみんなを救いたい
気迫が感じられる疫病対策
──2年以上にわたって世界を揺るがせている新型コロナウイルス感染症の蔓延に加えて、ロシアのウクライナ侵攻などで、世界的に社会不安が広がっている今、平和と安寧を願って神仏に手を合わせる人も多いと思います。奈良時代に東大寺の大仏が造られたのも、仏教によって災害や疫病などの国難を鎮めたいという願いがあったのですね。
西山 聖武天皇が即位して10年余りが経った頃、天然痘が流行し、全国で多くの死者が出ました。100万から150万人が亡くなったと推定する研究者もいます。当時の日本の人口は500万人くらいと考えられるので、これは想像を絶する悲惨な状況です。
こういう時にどのような対策が取られたのか。奈良時代なんだから神仏に祈るしかないだろうと思われるかもしれませんが、そうではありません。食糧や薬を支給すると共に、対処療法を全国の人々に周知させようとしています。
奈良時代の日本は、多くの医師や薬剤師を国家公務員として抱えており、最新の中国の医学書に基づいて対処療法をまとめています。例えばこんなふうです。
「この病気は赤斑病(天然痘のこと)という。発熱後、3~4日で発疹し、瘡(かさ)の出る期間が3~4日続く。患者の全身は焼けるように熱く、しきりに水を飲みたがるが、決して飲ませてはならない」
「合併症状には、咳・嘔吐・吐血・鼻血の4種がある。熱が引くと下痢が起きる。下痢には注意せよ」
「患者の腹や腰を布や綿で巻いて温かくし、冷やしてはならない。患者を地面に寝かせてはならない。必ず敷物を敷いて寝かせるように」
「重湯(おもゆ)や粥を与えること。鮮魚・肉・果物・生野菜はいけない。乾燥米で粥を作る時には、細かく砕くこと」
「食事は無理にでも食べさせるように。海松(みる)(海藻)を炙(あぶ)ったものや、塩を口に含ませるとよい」
さらに快復後の対処法についても詳しく説明されていて、とても行き届いています。
──どうやって、そのことを人々に伝えたんでしょうか。
西山 「この文書が届いたらすぐに写し取り、ただちに隣国に送付せよ」とあります。この文書が届いたら、すぐに書き写す。そして原本は手元に残し、書き写したものを隣国に届ける。同じように、隣国から隣国へと、伝言ゲームのようにして全国に伝えていったんですね。
今なら、インターネット、テレビ、ラジオ、新聞などで簡単に伝えられますが、そんな便利なものはありませんから、人から人へ伝えていくしかない。
そして「国司は所管の国内を巡行し、すべての人に告示せよ」。国司は今の県知事です。国司みずから国内を巡り、すべての人に伝えよ。なんとしてもみんなを救いたいという気迫が感じられます。
「重湯や粥を与えること」と言われても、貧しくてお米のない人はどうしたらいいのか。それに対しては、「重湯や粥にする米がない者がいたら、国司は正税の倉を開いて支給し、使用量を太政官に報告せよ」とあって、備蓄してあるお米の支給を国司に命じています。
──ずいぶん具体的ですね。
大仏は聖武天皇の深い苦しみから生まれた
西山 天然痘の流行だけでなく、聖武天皇の治世は、旱魃(かんばつ)飢饉(ききん)や大地震も起きた大変な時代でした。聖武天皇と光明皇后は同い年で、16歳で結婚し、間もなく女の子が生まれます。
もちろん喜んだでしょうが、後継ぎのことを考えると、男の子が欲しいと思っていたでしょうね。でもなかなか授からなかった。9年後、ようやく待望の皇子(おうじ)が生まれました。
聖武天皇はとても喜び、生まれた赤ちゃんを生後2カ月で皇太子にしています。皇太子は天皇に何かあった時に代わって政務を執(と)る存在ですから、赤ちゃんにはとうてい無理ですが、聖武天皇がこの皇子にどれほど大きな期待を寄せていたかがうかがえます。
しかし皇子は病気だった。あらゆる手立てを尽くしてもよくならない。もう人間の力では救えないと考えた聖武天皇と光明皇后は、観音菩薩の像を177体造り、『観音経』を177巻写経して、死にかけているわが子を助けてほしいと観音菩薩に祈りましたが、皇子は満1歳を迎えることなく亡くなりました。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、「天皇、はなはだ悼(いた)み惜しみたまふ」とあって、悲しみのあまり、3日間、政務を執れなかったと記されています。
──その深い悲しみ苦しみが、大仏の造立(ぞうりゅう)につながるんですね。
西山 そうです。旱魃飢饉、大地震、天然痘の大流行。聖武天皇は「責めは予(われ)一人に在(あ)り」、すべては私のせいだとおっしゃっています。私に徳がないから、私の政治が悪いから、このような災(わざわ)いが起きるのだろう。すべての人々を幸せにしたいと心から願っているのに、現実は逆。聖武天皇はひどく苦しみます。そして、その苦しみのなかから大仏が誕生します。
すべての存在に明かりと温もりをくれる光の仏、盧舎那仏
西山 大仏は大きいからそう呼ばれていますが、本当の名前は盧舎那仏(毘盧遮那仏とも)で、『華厳経』に出てくる仏様です。ですから大仏についてちゃんと知るには、まず『華厳経』について知る必要があります。
「華厳」とはどういう意味なのかといいますと、「厳」は飾る。だから「華厳」は華(はな)で飾ること。人々の善(よ)き行いが華になり、世界を美しく飾っていく。そんなふうに、みんなでこの世界を美しく飾っていこうと『華厳経』には説かれています。
そしてさらに『華厳経』は、存在しているものはすべて華であって、この世界を美しく飾っているとも説いています。そうであるならば、すべてのものは等しく尊いということになります。すべてのものはこの世界を美しく飾っているのですから。これは究極の平等思想です。聖武天皇は、『華厳経』をもっとも素晴らしい経典と考えていました。
盧舎那仏(毘盧遮那仏)は、インドの「ヴァイローチャナ」を訳した言葉です。訳したと言っても意味は横に置いて、似た音の漢字を持ってきただけ。盧舎那=ローチャナ、毘盧遮那=ヴァイローチャナ、確かに似ていますね。
では「ヴァイローチャナ」の意味は、というと「光の仏」です。太陽のような仏。命あるものにも命なきものにも、この世のすべての存在に明かりと温もりをくれる太陽のような仏様、それが盧舎那仏、大仏様です。
──大仏造立は、途方もない大事業ですね。
西山 だから聖武天皇は造り始める決心がなかなかつかなかったのです。740年に河内国の知識寺で盧舎那仏を拝し、心が決まります。「知識」とは、仏教の信仰のもとに活動している人々のこと。そういう人たちが、みんなの力を合わせて造ったお寺が知識寺で、そこに盧舎那仏が祀(まつ)られていました。
国家の大きな力ではなく、たくさんの富ではなく、民間の小さな力をたくさん集めて大仏を造る。そんなやり方があったのだ。そんなふうに造ってこそ、盧舎那仏は真の太陽になるだろう。3年後の743年、聖武天皇は、いよいよ大仏を造ろうと宣言します。
大仏造立の詔(みことのり)
小さな力を合わせて
──「大仏造立の詔」は、どんな内容なんですか。
西山 そこには、聖武天皇がなぜ大仏を造ろうとしたのか、その理由がはっきり述べられています。「動植ことごとく栄えむとす」。すべての動物、すべての植物が、栄える世を目指す。人間のためだけに造ったのではないのですね。
「それ、天下の富を有(も)つは朕(ちん)なり。天下の勢を有つは朕なり。この富と勢とを以てこの尊き像を造らむ」という有名な箇所があり、「天下の富と権力を持つのは私だ。その富と権力で大仏を造ろう」という意味で教科書に引用されたりしますが、大事なのはそれに続く「事(こと)成り易く、心至り難し」です。たくさんの富と権力で造れば簡単にできるかもしれないが、それでは「心至り難し」、心が至らない、だからそれではだめだ。
では、どうするのか。
「人有(あり)て、一枝の草、一把(にぎり)の土を持ちて、像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」
もしも誰かが、一本の草、ひとにぎりの土を持ってやって来て、私も手伝いたいと願ったならば、手伝ってもらえと言っておられます。一本の草やひとにぎりの土なんか、何の役にも立たないのに。聖武天皇はそういう人たちが現れてくることを願い、そういう人たちの力を集めて大仏を造りたいと考えていたことが分かります。
──そうしたお話を聞くと、大仏を見る目も変わってきますね。
西山 これは、1200年以上も前のお話ですが、現代の私たちも、大きな力に頼るのでなく、たくさんの富に頼るのではなく、小さな力しかないけれど、みんなでその小さな力を合わせて何かを成し遂げるほうが、ずっと価値あることのように私には思われます。
完成した盧舎那仏
開眼会(かいげんえ)の賑わい
──盧舎那仏は、完成までにどれくらいかかったんですか。
西山 752年4月9日、大仏開眼の盛大な法会(ほうえ)が催されました。造立の詔(みことのり)から9年後のことです。
この大法要には、すでに譲位していた聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめ、多くの人々が参列し、1万人の僧侶が集まりました。大仏に対して、さまざまな歌や舞が奉納され、その賑わいは「かつて此の如く盛なるは有らず」と言われたほどでした。この日に用いられた品々は、今も正倉院に伝えられています。
奈良時代は、仏教の力で国を護り、人々を幸せにしようと考えていた時代です。全国に国分寺と国分尼寺が建てられたのも、仏教の力で災いをなくそうとしたためでした。
「お水取り」の愛称で知られる東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)が始まったのは、大仏が完成したこの年のことでした。大きな松明(たいまつ)が振られることがよく知られていますが、あれは十一面観音にお詫びをする行事なんですよ。
人間が悪いことをするから災いが起きる。悪いことをしなければ災いは起きないのだけれど、悪いことをしてしまう。だから東大寺の僧が代わりにお詫びをして災いが起きないようにお願いする。それが「お水取り」。奈良時代は、災いをなくす力が、仏教に強く求められていました。
夭折(ようせつ)したわが子の面影を重ねた阿修羅、沙羯羅、五部浄
──日本人が一番好きな仏像と言われる、興福寺の阿修羅(あしゅら)像についても逸話があるそうですね。
西山 阿修羅像が好きな人はとてもたくさんいます。特に女性のファンが多いようです。でも、それが光明皇后が亡くなったお母さんの冥福を祈って造らせたものであることを知らない人も少なくないと思います。
聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇子が満1歳にもならずに亡くなったという話をしましたが、4年後に、今度は、光明皇后のお母さんである橘三千代(たちばなのみちよ)が亡くなりました。
橘三千代の一周忌に際して、光明皇后はお母さんの冥福を祈り、興福寺に西金堂を建てました。本尊の釈迦如来の周囲には、十大弟子や八部衆など、お釈迦様ファミリーの像が安置されました。八部衆のひとりが阿修羅。だから阿修羅像は、光明皇后がお母さんの冥福を祈って造ったことが分かります。
──阿修羅は少年のようだと言われますね。
西山 幼い少年ではありませんが、大人にはまだなっていないように見えますね。八部衆像には、阿修羅以外にも子どもにしか見えない像があります。たとえば五部浄(ごぶじょう)は、私には5年生くらいの男の子に見えますし、沙羯羅(さから)は幼稚園児、6歳くらいの幼子のようです。沙羯羅も五部浄も子どもではありませんから変です。こうした八部衆像があるのは、興福寺の西金堂だけです。
西金堂を建てたのは亡くなったお母さんのためですが、4年前に亡くなった子どものことも光明皇后は考えていたのだと思います。「死んだ子の年を数える」という言い方があります。もしも子どもが元気だったら、満6歳になっています。ちょうど沙羯羅のようです。そして何年かしたら五部浄のようになり、また何年かしたら阿修羅のようになる。
八部衆には、死んだ子どもの幻の成長過程が投影されているように思われます。そんなふうに光明皇后が造らせたのでしょう。
元気いっぱい幸せいっぱいの人が仏像を造らせたりはしません。どの仏像の背後にも、深い悲しみや苦しみがあるはずです。
両親が買ってくれた仏教童話全集
これが仏教との出会い
──ところで、西山さんが仏教に興味をもったきっかけはなんでしょうか。
西山 私が3歳の時に母が大病をしました。母が入院した日のことをはっきり覚えています。母は小さな私をおんぶして部屋のなかを歩き回り、「病院から帰ったら、またおんぶするわね」と言って家を出ていきました。この子をおんぶするのはこれが最後、と思っていたのかもしれません。
幸いに母は助かりました。でも再発したら終わりだと言われていたそうです。母は小さな観音像を持って嫁いできました。毎晩、母は、観音様に『般若心経』と『観音経』を唱えていました。末っ子で甘えん坊でいつも母にくっついていた私は、『般若心経』を覚えてしまいました。
父も病気がちで、20代の頃はずっと病院暮らしでした。ようやく退院した時に、お医者さんから「あなたは40歳までは生きられないから、やりたいことがあるなら、まっしぐらにそれをやりなさい」と言われたような人でした。
──そんなご両親の影響によって、仏教との出会いが生まれたんでしょうか。
西山 父も母も、自分たちには来年がないかもしれないと考えていました。いま死んだら、この子はまだ小さいから、きっと私たちのことを忘れてしまうだろう。この子に残せるものはないだろうかと考えた末に、私に仏教童話全集を買ってくれました。
姉や兄がいたので、私は早くから字を読めました。幼い頃から何度も何度もこの本を読んでいたので、今でもそこに収められた多くの物語を覚えています。そんなふうにして、私は仏教と出会いました。
私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。
──ご著書では「仏像に会う」という言葉を使われていますね。「虚心坦懐に仏像と向き合うことが大切」という思いがよく伝わってきます。
西山 仏像と向かい合う時には、それまでに知った情報は忘れたほうがいいです。理屈や説明や他人の解釈はいらない。情報に基づくのではなく、自分の目、自分の心だけで向かい合ったほうが、もっと仏像に近づけます。
私が大好きな詩人に、金子みすゞさん(*)がいます。素敵な詩がたくさんありますが、私が一番好きなのは「さびしいとき」です。
「わたしがさびしいときに、/よその人は知らないの。/わたしがさびしいときに、/お友だちはわらうの。/わたしがさびしいときに、/お母さんはやさしいの。/わたしがさびしいときに、/ほとけさまはさびしいの。」
「わたしがさびしいときに、/ほとけさまはさびしいの。」──私がさびしいときに仏さまもさびしい。それが救いになる。仏様へのこんな思いは、インド以来、たぶんどこにもなかった。この詩はある意味で日本仏教のひとつの到達点だと私は思っています。
寄り添ったからといって、悲しみも苦しみもさびしさもなくなりはしない。だから寄り添い続ける、それが私が思う真の仏教です。
大仏の向こうに聖武天皇の苦しみがあり、阿修羅の向こうに光明皇后の悲しみがある。素晴らしいものは、深い苦しみや悲しみから生まれてくるような気がします。
元気いっぱい幸せいっぱいの人が仏像を造ったりはしない。仏像に会うことは、苦しみや悲しみに寄り添うことでもあるのです。
(2022年10月4日、インターネットを通して取材)
聞き手/遠藤勝彦(本誌)
*=大正末期から昭和初期に活躍した詩人。1903~1930年