転勤で新しい職場に赴いたが、以前の職場と仕事の進め方が違っていたため、上司や同僚と、どうしてもそりが合わず、激しい口論になることも一度や二度ではなかった。業を煮やして会社を辞めようと思い、妻に相談すると、生長の家の教えを学ぶように勧められた……。

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「今の私の幸せがあるのは生長の家のお陰。教えを伝えてくれた妻に感謝しています」(写真/高木あゆみ)

髙津孝道さん│73歳│愛媛県東温市
取材/佐柄全一

妻から生長の家を伝えられる

 
 髙津孝道さんは小学校1年のとき、母親と死別したが、その頃の記憶があまりない。というのは、3歳のときに食中毒で生死の境をさ迷い、一命は取り留めたものの記憶障害という後遺症が残ったからだ。

「幼い頃に死に直面したことは、心身ともによほどショックだったようで、それを忘れたいと思うあまり、記憶障害になったのではないかと思うんです」

 姉とは17歳も年齢が離れていて一人っ子同然だったため、息子の将来を案じた父親は、しばらくして遠縁の女性と再婚した。その継母に大切に育てられ、記憶障害も徐々に回復した髙津さんは、地元の工業高校の電子科に進学した。

「これからは電子工学の時代だ、と思って電子科を選びました。楽そうだと思って部活は弓道部にしたんですが、想像とまったく違って厳しく鍛えられて閉口しました。しかし、お陰で心身共に逞しくなりました」

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 卒業後、広島県にある自動車の関連会社に就職。100キロを超える強靭な体と、持ち前の粘り強い性格で金属加工の仕事で活躍し、2年後、生まれ育った愛媛県新居浜市の会社に転職して、営業職に就いた。その後31歳のときに、4歳下の栄子さんと見合い結婚し、2男を授かった。

 その栄子さんから生長の家の教えを伝えられたが、最初の頃は見向きもしなかった。
「結婚前に妻の家を訪ね、書棚にあった『生命の實相』(生長の家創始者・谷口雅春著、全40巻。日本教文社刊)を読んでみましたが、心に響くものはありませんでした。あの頃の私は自信過剰で、この世に神がいるなら、それは俺だくらいに思っていましたから」

 一方、栄子さんは子どもを授かると、知人が開催している母親教室*1に参加し、ますます熱心に信仰するようになった。といっても、無理に信仰を勧めるわけでもなかったため、髙津さんは栄子さんの信仰を黙認していた。
*1 母親のための生長の家の勉強会

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退職を決意して妻に相談

 
 そんな37歳のとき、会社の業務改革で転勤した松山市の支店で、上司や同僚との間に、仕事の進め方を巡ってトラブルが発生した。髙津さんは自分のやり方がベストだと譲らず、どんどん社内で孤立していき、得意先の人からも疎んじられるようになった。

「もうこんな会社にはいられないから辞めよう」と決意したとき、ふと思い浮かんだのが、栄子さんのことだった。

「熱心に信仰している家内が本当に幸せそうなんですね。その姿を見て、もしかしたら自分も生長の家で救われるかもしれないと思って、包み隠さず家内に悩みを打ち明け、相談してみたんです」

 そこで勧められたのが、教化部*2で開かれる浄心行(じょうしんぎょう)*3だった。これでトラブルが解消するならと、会社を休んで参加する決意をし、教化部に向かった。
*2 生長の家の布教・伝道の拠点
*3 過去に抱いた悪感情や悪想念を紙に書き、生長の家のお経『甘露の法雨』の読誦の中でその紙を焼却し、心を浄める行

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「こんな世界があったのか」

 
 何もかもが初めてだった髙津さんは、一抹の不安を抱えたまま教化部で受付を済ませ、大道場に入った。そこには大勢の参加者が集まっており、いよいよ浄心行が始まった。

「全員で聖経*4を読誦し、先導の講師が唱える父母への感謝の言葉に唱和して、『お父さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます』という言葉が会場全体に響き渡る、その光景は荘厳そのものでした。教えのことも、行事の意味も何も知らない私でしたが、こんな世界があったのかと、全身が打ち震えるような感動を覚えたんです」
*4 生長の家のお経の総称

 浄心行を終えて帰宅しても、感動は冷めやらなかった。翌日出社すると、それまで敵だと思っていた同僚から、なぜか笑顔で話しかけられ、不思議なことにそれっきりすべてのトラブルが解消してしまった。

「その中の一人とは、その後、親友になったんですが、あのときなぜ笑顔で話しかけてくれたのかと聞くと、『あんたの顔に険がなくなって、柔和になっていたから、思わず笑顔になってしまった』と言われました。環境は自分の心がつくりだすもので、自分の心が変われば世界が変わる、という生長の家の教えの素晴らしさを実感しました」

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朗らかに笑う髙津さん。明るい性格で周りから慕われている(写真/高木あゆみ)

生長の家へのご恩返し

 
 それからの髙津さんは、仕事と生長の家の活動を両立し、50歳で会社を退職してからは愛媛県教化部の職員になり、相愛会*5や講師会の事務を担当した。20年前に退職したが、今も毎日のように車で教化部に通い、インターネットでの会議や誌友会*6の進行役などをボランティアで務めている。
*5 生長の家の男性の組織
*6 教えを学ぶつどい

「妻のおかげで生長の家の信仰に導かれ、トラブルが解消したばかりでなく、いまこうして充実した人生を送ることができて本当にありがたいと思っています。生長の家に少しでもご恩返しできるように、妻と一緒に一層信仰に励んでいきたいと思っています」

 両親に可愛がられて育った2人の息子たちは、それぞれ立派に成長し、共に信仰を受け継ぎ、同居している長男は、生長の家地方講師*7として活躍している。
*7 教えを居住地で伝えるボランティアの講師