宮崎県都城市の田舎に住む蒲生芳子さんは、古民家カフェを営む傍ら「NPO法人手仕事舎そうあい」の代表を務め、地元の人たちとともに、四季の恵みに感謝しながら地域の伝統を守り、先人の知恵を受け継ぐことの大切さを伝えている。農業とともにある暮らしや、田舎暮らしの愉しみについて、蒲生さんに聞いた。
歴史ある町の由緒ある建物で古民家カフェを営む
──蒲生さんが住んでいらっしゃる宮崎県都城市について、少しご紹介いただけますか。
蒲生 都城市は宮崎県の南西端、鹿児島県との県境にあり、人口は約16万人で、県内では宮崎市に次いで人口の多い町です。地名の由来ともなっている都之城(みやこのじょう)や神柱宮(かんばしらぐう)、東霧島神社をはじめ、日本の滝100選の一つ、関之尾滝(せきのおたき)などがあり、私が生活の基盤としている市内の庄内町には、宮崎県指定無形民俗文化財の熊襲踊(くまそおどり)という祭事もあって、歴史がある町ですね。
──庄内町で「町家カフェもちなが邸」を営んでおられますが、その建物も由緒あるものだとか。
蒲生 そうなんです。元の所有者だった持永家は、商家として繁栄した地元の名士です。持永邸は明治40年(1907年)に建築されたもので、敷地は680坪あり、平成30年に国の登録有形文化財に指定されています。
地域の子どもたちや大人が集い交流する場所として
──そんな場所でカフェを始められたきっかけはなんだったんですか。
蒲生 平成22年に、衆議院議員だった持永家の当主が議員を辞めて東京に行くことになり、持永邸が取り壊されるという話を聞いたのが発端でした。美しい石垣、漆喰の土蔵、花鳥風月の欄間、日本庭園、桜貝の色素から取った弁柄の壁などがある持永邸はまさに地域の宝で、これを壊してしまうのは宝の損失になると思いました。
この持永邸を、地域の子どもや大人たちが集い、交流する場所にすれば町の元気の素になると考えて、何とか買い取りたいと思い、わが家のありったけのお金をかき集めただけでなく、私の姉からもお金を借りて購入したんです。
それから、主人(蒲生宏孝)とも相談して、「歴史ある建物だし、地域の宝なので、私たちだけでなく、みんなで維持していきましょう」ということで、「NPO法人手仕事舎そうあい」を立ち上げました。そして翌平成23年に、持永邸を維持・管理するために「町家カフェもちなが邸」をオープンしたんです。
地域の歴史と食文化を継承し、地域を活性化するために
──「NPO法人手仕事舎そうあい」は、どんなことを目指して設立されたんですか。
蒲生 まず1つ目としては、歴史的文化遺産である古民家の持永邸を、老若男女みんなが集えるたまり場“開かれた公民館”として利活用し、地域コミュニティーの再構築(新たなコミュニティーの創造)を目指すというものです。
2つ目は、地域の歴史と食文化を継承して、地域の活性化と地域の絆の再構築を目指すこと。そして3つ目が、次代の子どもたちに、先人の知恵、地域の歴史文化を継承していきたいということですね。
──具体的にはどんな活動をされているんでしょうか。
蒲生 移住支援交流事業やそば打ちの体験プロジェクトのほか、田舎暮らしを愉しむための講座を開いたり、みんなで野菜を育てて一緒に料理して食べる食農体験のプロジェクト、地域の宝探し、河川浄化の自然保護活動など、さまざまなことに取り組んでいます。昨年(2021)11月には、6年前から始めて56回目となる、地域の人たちが野菜や手作りの料理などを持ち寄って販売する「べっぴんシェアの会」を開きました。
田舎暮らしを愉しむための講座では、セリやヨメナなどの野草を使った料理を作ったり、梅干しやラッキョウを漬けたり、ぬか床、味噌、納豆、塩こうじ、甘酒作りなどをしているほか、椎茸の栽培もしています。
──「町家カフェもちなが邸」もそうした活動の一環として営まれているんですか。
蒲生 そうですね。このもちなが邸は、ただ料理を提供するのではなくて、日本人として大切な食のあり方を次世代に“引き継ぐ”ことを一番の目的にしています。
料理は通常、お昼のご膳のみで、その中身は、無農薬で育てた米に雑穀を混ぜたご飯や、発酵食品を使った季節の野菜や豆の料理、具だくさんの味噌汁などです。決して華やかなものではありませんが、私たちの食の原点と言えるものを提供しています。
九州の伝統食「ガネ」の
復興に力を入れて
──九州の伝統食と言われる「ガネ」もその一つですか。
蒲生 はい。「ガネ」という言葉は、九州地方の方言で「蟹(かに)」という意味で、サツマイモを細切りにし、溶いた小麦粉に混ぜて油で揚げた姿が蟹に似ていることから、この名前がついたと言われています。
サツマイモのほかにゴボウやニンジン、ニラなどを入れ、塩や砂糖でしっかり味付けをして油で揚げるので、そのまま食べられます。お弁当のおかずやおやつにもいいですし、イリコやショウガを一緒に入れるとお酒のおつまみにもピッタリです。
──とてもおいしそうですね。
蒲生 ところが今、ライフスタイルが変わったこともあって、このガネが家庭で作られなくなっているんです。そこで、先ほども話に出てきた食農体験では、子どもたちと一緒に野菜を育てて収穫し、料理して一緒に食べるということを行っているんですが、この中でサツマイモも育ててガネも作っています。
そうしたことを通して、伝統食の大切さばかりでなく、「いのちをいただく」ことの大切さも自然に伝わるので、一石二鳥だと思っています。
農ある暮らしを体験するため
循環型の生活を送る
──『かもうよしこの農ある暮らしのすすめ』(鉱脈社)というご著書も出されていますね。
蒲生 この本の中で、まず言いたかったのは、「有機無農薬で、安心・安全な野菜を作りましょう」ということなんです。自分や家族が食べるものを自ら作り、食べものが身近にあるのは、人間にとって幸せなことだと思うからです。食べるものを自分で育てる、これが“農ある暮らし”の第一歩です。そのことを通して、農家の人、お天道様や虫たちなど、自然への感謝の心が育まれていくんですね。
──ご著書の『かもうよしこの田舎暮らしを愉しむ』(鉱脈社)の中に、ビオトープの話が出てきますが、このビオトープを作っているのも“農ある暮らし”を体感するためのものなんでしょうね。
蒲生 そうですね。ビオトープは、昭和49年に開いた田舎そば屋「がまこう庵」(都城市吉之元町)の敷地の中にあって、雑木林、竹林、沼地、湿地、池などがあり、小川も流れています。沢にはセリが自生し、野イチゴもなりますし、水辺には、カエルやホタルなど、さまざまな生き物がいるという、生物多様性が保たれています。
その土地に合った形態で、自然と共生したビオトープにするのが大切で、私たちのNPO法人がお手伝いして町内の庄内小学校にビオトープを作ったときも、そのポリシーで行いました。「自然と友だちになれる」と言って目を輝かす子どもたちの姿を見ると、ビオトープは“生きた教科書”だと実感しますね。
太陽光発電を設置し、
雑排水、残飯も無駄なく利用
──前掲書には、循環型の生活を送っている様子が書かれていますが、具体的にどんなことをされているんですか。
蒲生 エネルギーの自給を目指して、屋根にソーラーパネルを設置し、以前は風力発電も行っていました。また、がまこう庵のトイレと雑排水は、竹炭で濾過してビオトープを作り、店で出る残飯は、コンポストに溜めて肥料やニワトリの餌にし、ニワトリの糞は畑の堆肥に使っています。
おかげでおいしい野菜ができ、がまこう庵やもちなが邸のお客さまにも喜んでいただけるので、まさに循環さまさまだと思っています(笑)。
──雨水タンクも利用されているんですね。
蒲生 都城市では地下水を水道水にしているんですが、その地下水が減少していると聞いて、できるだけ水道水の使用量を減らそうと雨水タンクを2つ導入しました。
1つは玄関の横に設置した、容量200リットルの雨水タンクで、畑や庭の水撒きに大活躍しています。もう1つは、容量が1トンもある雨水タンクで、家の裏にあるトイレの近くに設置し、雨水をトイレ用の水として使っています。
以前は、飲み水である水道水を撒いたり流したりしていることに心を痛め、水道水をたくさん使うことで懐も痛めていたんですが(笑)、それもなくなりました。雨水タンクを設置したことで、日々の暮らしの中で、大切なはずの水をあまりにも無頓着に使っていたことに気づかされました。
山奥の村で老人から聞いた言葉が
人生を変えるきっかけに
──そもそも、田舎暮らしを始めたのはどんなことからだったんですか。
蒲生 私は若い頃に宮崎県庁の職員として生活改良普及員をしており、その仕事で宮崎県の山奥にある椎葉村(しいばそん)に赴任したんですね。
ある日、小さな畑で豆を蒔いている老人に出会いました。ふと見ると、種を3粒ずつ蒔いているので、不思議に思って「どうして3粒なんですか」と尋ねたら、その老人は凛として、「1粒は空の生き物に、1粒は土の生き物に、残りの1粒は人が食べるため」と答えたんです。
そのとき、「この人は自分だけじゃなく、空や土の中の生き物のことも考え、自然に対して畏敬と感謝の心を持って種を蒔いているんだ」と思うと同時に、「自然との共生」などと軽々しく言っていた自分が虚しく思え、カルチャーショックを受けたんです。
──感動的な話ですね。
蒲生 そんなとき、私と似た考え方、価値観を持つ、後のパートナーとなる蒲生宏孝と出会ったんです。彼は同じ県庁の農業改良普及員として、私より先に椎葉に魅せられた人で、椎葉の自然や暮らしを丸ごと売り出し、都会の人々に安らぎと癒しの空間を提供する「自然供給産業」、今でいう「村おこし」の必要性を村の青年たちに熱く語っていました。
私もその考えに共感し、自然供給産業を進めるため、二人で各集落の婦人グループが作った味噌漬けや山菜などを旅館の前で売り始めたんです。その様子をNHKに取材されたりして注目され始めた頃、村の青年からこんなことを言われて衝撃を受けました。「あなたたちはいいよな。公務員だし、食いっぱぐれることないし、任期が終われば無責任に椎葉を出て行くんだろう」って。
彼らにとって私たち普及員は、所詮通り抜けていく風なのかと思いました。そのとき、私たちにできるのは、商売を始めて自然供給産業が成り立つことを証明する他ないと痛切に感じて、昭和46年に県庁を退職したんです。
さまざまな紆余曲折を経て
郷里で「がまこう庵」を開く
──それからどうされたんですか。
その年に結婚し、大阪で旅館業を営んでいた私の姉のもとで修業した後、姉からお金を借りて、大阪の天満で喫茶店を開きました。椎葉で覚えた田舎丸出しのだんごや混ぜご飯が受けて常連客も増え、2年足らずで借金を返すことができたんです。だけど、長女が生まれてからというもの、私たちが夜遅くまで働いているため、レジの横で寝たりしている長女の姿を見て、「ここは子育てをするところではない」と思い始めたんですね。
そんなとき、父が病気になって郷里の都城に戻ることになり、それを機に、自然供給産業を夢見ていた私たちは、昭和49年、霧島山麓の吉之元(よしのもと)町に、田舎そば屋「がまこう庵」を開いたんです。
──それからは順調に?
蒲生 いやいや。そば屋の売れ行きが伸びなかったため、仕出し屋をしたり、居酒屋、冷凍食品の販売など、いろいろな商売に手を出しましたがどれもうまくいきませんでした。その結果、「私たちは金儲けよりも生き方を大切にしよう」と決め、原点に戻ってがまこう庵の経営に力を入れるようになったんです。
そして、利便性を優先した生活を見直し、がまこう庵を、人と自然との関りを考え、実践する場としました。例えば、冬は薪ストーブで暖を取って、その灰でコンニャクを作ったり、ニワトリを放し飼いして店の残飯を餌にし、その糞は落ち葉と混ぜて堆肥にして野菜作りに使うなど、循環型の生活をするようになったんです。
──自然供給産業が実現したわけですね。
蒲生 がまこう庵がそば屋という生業と持続可能な暮らしの実践の場となったわけで、生き方、暮らし方そのものが産業であり、商いとは、金儲けをすることではなく、共感する仲間を得ることなんだと痛感しました。ここでいろんな人と出会い、さまざまな体験をしたことが、その後の手仕事舎そうあいの設立、町家カフェもちなが邸を始めることにつながっていくわけです。
こうして考えると、これまでの経験がすべて生きて今の私があるとしみじみ思っています。
一人ひとりの行動、暮らし方が
SDGsの達成に直結している
──長い間、田舎暮らしをしてこられて、実感するのはどんなことでしょうか。
蒲生 いま、SDGs (エスディージーズ)(持続可能な開発目標)が盛んに叫ばれていますが、大切なのは、私たち一人ひとりの行動、暮らし方がSDG sの達成に直結していると自覚することだと思います。田舎暮らしもその一つで、私は、田舎暮らしには5つの「よいところ」があると考えています。
1つは、体に優しくて、自分や家族が健康になるということです。自分で野菜や米などを無農薬で作ることで、安心・安全、新鮮なものを食せるわけです。
2つは、財布にも優しいということですね。家庭菜園で野菜を作り、ニワトリを飼って卵を採り、その糞に落ち葉を混ぜて肥料にし、庭には果物を植えてジャムを作ったりする。薪ストーブで電気代、雨水タンクで水道代を節約し、物をできるだけ長く使えば、やはり節約できます。
3つは、体だけでなく心にも優しいということです。豊かな自然に囲まれて、自然と共に暮らすことで癒され、穏やかな気持ちになります。また、一粒の種から芽が出て花が咲き、野菜ができたり、ミツバチやチョウが空を舞う様子を見たら、誰でも心が満たされます。
4つは、未来にも優しいということです。食やエネルギーを自給自足し、足りないものも近くから調達することで、フードマイレージ(食料の輸送距離)が減り、地球温暖化防止に貢献できるわけです。
そして5つは、シェアする(分け合う)心が生まれるということですね。野菜などで作った料理はもちろん、野菜の栽培方法や料理の作り方など、いろんな知恵をシェアすることができるのも田舎暮らしのいいところだと思います。
──今後の抱負をお聞かせいただけますか。
蒲生 あのとき、椎葉で味わったカルチャーショックを忘れることなく、これからも、手仕事舎そうあいの活動、もちなが邸の仕事を通して、“農ある暮らし”、田舎暮らしの愉しさを多くの人、特に次世代を担う子どもたちに伝えていきたいと思っています。
(2021年12月3日、インターネット通信により取材)