祖父から続く海運業を受け継ぎ、一時は繁栄したが、時代とともに衰退して岐路に立たされた。そんなとき、先祖供養に励み、練成会*1に参加して教えの研鑽に励むうちに、「家業を守らなければ」という思いが消え、社員に迷惑をかけることなく、円満に廃業する道が開けた。
*1 合宿形式で教えを学び、実践するつどい

inoti165_turning_1

自宅の裏にある畑で、野菜を育てている中野さん。この日収穫したカボチャを手に

中野正之(なかの・まさゆき)さん│79歳│岡山県備前市
取材・写真/永谷正樹

中学3年の時、7カ月の入院生活

 
 備前焼の産地として知られる岡山県備前市。中野正之さんはこの地で、祖父の代から続く海運業を営む両親の下に、4人きょうだいの長男として生まれた。

「鋼材を木造船に積み、姫路から大阪へ運んでいた父の姿を見て育ったので、物心がつく頃から、将来は祖父や父の跡を継いで船乗りになろうと決めていました」

 しかし、機械いじりが好きになったこともあって、中学校卒業後は兵庫県の工業高校に進もうと考えるようになった。ところが、試験を目前にして急性腎臓炎を患ってしまい、入院生活を余儀なくされた。

inoti165_turning_4

「4カ月経っても治らなかったため、専門病院に移り、さらに7カ月経ってようやく退院できたんです。それで高校への進学は諦め、海運業を手伝うようになったんですが、精神的なダメージは大きいものがありました」

 そんなとき、母親から『青年の書』(生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊)を読むよう勧められた。宗教の本かと一瞬反発を覚えたが、読み始めると、「背水の陣を布け」「困難に面して伸びる精神力」「危険に面して恐れざる者は遂に勝つ」といった力強い言葉が強く心に響いた。

『生命の實相』(谷口雅春著、全40巻。日本教文社刊)も勧められ、不規則な海運業の仕事の合間を見つけては、貪るように読みました」

inoti165_turning_3

『生命の實相』で身体が丈夫に

 
 長い入院生活で体力が落ちていたが、『生命の實相』を読むうちに身体が丈夫になり、自信が生まれた。大きな船を買ってベテランの船長を雇い、事業を拡大したいという夢を描くようになって、昭和40年には、それまで個人事業だった海運業を法人化して新しい鋼船を建造した。

『生命の實相』を読んで、生長の家の教えを信仰するようになり、昭和45年には、東京で開催された生長の家青年会*2全国大会に初めて参加しました。地元の信徒さんとも繋がりができ、生長の家岡山県教化部*3での練成会にも行きました」
*2 12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織
*3 生長の家の布教・伝道の拠点

 昭和46年に、妻のよし子さんと結婚。それを機に、よし子さんも練成会に参加し、夫婦で教えを学ぶようになった。母親から勧められ、よし子さんが生命学園*4に通って、子どもと教えを学んだおかげで、授かった3人の子どもも、大学入試や就職活動など人生の重大な場面で問題や困難に直面したとき、それを克服する精神力が養われたという。
*4 幼児や小学児童を対象にした、生長の家の学びの場

続けるだけが私の使命ではない

 
 その間、両親から海運業を受け継ぎ、最盛期には大小の船を2艘、船員を7人抱えるまでに発展し、仕事の範囲も関西のみならず全国に広がった。ところが、時代が昭和から平成に変わると、鋼材の運搬は陸路が中心になり、燃料費の高騰もあって経営に陰りが出てきた。

 平成5年末には、メインの取引先から契約の打ち切りを告げられ、このまま仕事を続けていくか、廃業するかの岐路に立たされた。

inoti165_turning_5

「その頃は、所有している船が古くなり、新しい船を購入しなければならない時期だったんですが、新しい船の建造を契約直前でキャンセルし、古い船を売りに出して廃業に向けた一歩を踏み出したんです」

 とはいえ、船員たちの生活もある上、何より祖父が興した海運業を自分の代で潰してしまうのは申し訳ないという気持ちもあって迷った。

「そんなとき、今後のことについては、きっと父をはじめご先祖様がよい知恵を授けてくださるに違いないと思いつき、家族全員で感謝の気持ちで聖経*5を読誦して先祖供養をするようになったんです」
*5 生長の家のお経の総称

inoti165_turning_6

 さらに平成6年には、生長の家宇治別格本山*6と生長の家本部練成道場*7の練成会に連続して参加した。
*6 京都府宇治市にある生長の家の施設。宝蔵神社や練成道場などがある
*7 東京都調布市飛田給にある生長の家の施設

「人間は神の子であり、人生に起こるすべてのことは、自分を導き、成長させてくれる尊い経験になるという講話を聴きました。神想観*8や聖経読誦に励むうち、海運業を続けることだけが使命ではないと思うようになり、両親の承諾を得た上で、この際、海運の仕事を卒業しようと決断したんです」
*8 生長の家独得の座禅的瞑想法

 すると、祖父やご先祖に申し訳ないという気持ちも消え、心が明るくなった。そんなとき、「船が売れた」という朗報が届いて、そのおかげで借入金の返済や船員の退職金に充てることができ、誰にも迷惑をかけずに廃業する道が開けた。

人のために尽力する毎日

 
「それからは、知人の紹介で水処理の機械を扱う会社で定年の60歳まで働かせてもらい、その後、ご恩返しのつもりで生長の家岡山県教化部の職員となって、相愛会*9の事務局長として信徒の皆さんのお世話をさせていただきました」
*9 生長の家の男性の組織

「会社を定年退職後、生長の家岡山県教化部で働いたとき、パソコンの操作を学びました」

「会社を定年退職後、生長の家岡山県教化部で働いたとき、パソコンの操作を学びました」

 平成23年から31年までは町内会長も務めて地域に貢献し、今は、101歳の母親の世話をしながら、先祖が遺してくれた畑でよし子さんと野菜を作り、地元高齢者のグラウンド・ゴルフグルーブの世話役として人のために尽力する毎日を送っている。

「『すべてのことは神様に導かれている』というのが私の信条です。これからも神様の導きを信じて、人のお役に立つことをしていきたいと思っています」
 中野さんは、そう言葉を噛み締めながら、笑顔を向けた。