丸山政行さん│73歳│神奈川県座間市
地元の工業高校機械科に進学し、金型メーカーに就職した。設計部門のトップとして海外にも派遣されるようになったが、帰国後、閑職に追いやられてしまう。そのとき、「人生に無駄なことはない」という生長の家の教えが心に響き、新たな道を切り開くことができた。
機械の魅力にとりつかれて
丸山政行さんは、新潟県にある農家に3人兄弟の末っ子として生まれた。魚釣りの名人だった父親の手ほどきを受け、幼い頃から鯉や鮒、雷魚釣りに夢中になるなど、好奇心旺盛な性格だった。
「興味があることには没頭するんですが、興味がないと見向きもしないところがあって、それが災いし、社会人になってから大きな挫折に遭遇するとは、その頃は思ってもみませんでした」
中学卒業後、教師から勧められて地元の工業高校機械科に進学。機械設計との出合いが、丸山さんの好奇心に火をつけた。
「中学校では遊んでばかりいましたが、機械設計ってこんなに面白いんだと目を見開かれた思いになり、夢中になりました。そして、機械設計を一生の仕事にしようと思い、卒業すると東京に本社のある射出成形用金型メーカーに就職したんです」
金型とは工業製品を製造するための金属の器の総称で、日用品の多くがこれによって作られる。金型で成形することで同品質のものを安定して大量に作ることができるため、ドイツでは「生産工学の王様」とも呼ばれ、日本も戦後、世界としのぎを削るようになった。
丸山さんが入社した当時の会社は、いわゆる職人の集まりで、現場は昔ながらの徒弟制度で営まれ、学歴など全く問われなかった。仕事は体で覚えるのが基本で、言われたこと以上に自力で技術の向上に励み、それを自分のものにして初めて一人前の職人として認められた。
「そんな会社のあり方が、私の性格に合っていて、入社5年ほどで若手では抜きん出た存在になり、いい気になって夜の街に繰り出し、社交ダンスも始めました」
その後、23歳のときに、社交ダンスで知り合った静子さんと25歳で結婚し、2男1女に恵まれた。
順調な出世から暗転
結婚の直前、望んでいた金型設計の業務に異動となり、よりやり甲斐をもって仕事に取り組んだ。
「金型の設計業務は、自分で全てを考えて表現するというもので、自分では芸術家のような存在だと思っていましたから、毎日がほんとうに楽しかったです」
数年で他の追随を許さない金型を考案して設計部門のトップに立ち、同社が初めて海外に進出したマレーシアの工場の責任者として派遣されるまでになった。言葉の壁に悩まされたが、片言の英語や現地語に身振り手振りを加えて話すと、会話が成り立つことが分かり、「言葉は心で通じる」がモットーになった。
「7年の任期を終えて帰国してから、今度はアメリカ(工場はメキシコ)に赴任しましたが、従業員が会社の備品を持ち去ることが横行するなどの実態を目の当たりにすることになりました」
そこでの業務は、日本で作成した金型を使ってプラスチック部品を製造することだった。しかし着任して早々、部品の塗装が正常に行えず、出荷できない事態に陥った。
「前任者の社長から電話で再三指示を受けたんですが一向に改善せず、ようやく、社長が以前、工場の設備を思い付きで大幅に改変したのが原因だと気づいたんです。でも、それは口にできませんでした」
結局、問題は解決されないまま帰国するしかなく、それが原因で窓際族の扱いを受けるようになった。
信仰で窮地から救われる
そんな窮地を救ってくれたのが、生長の家の信仰だった。マレーシア赴任前に入信していた静子さんに誘われ、生長の家富士河口湖練成道場*1の練成会*2や、地元の神奈川県教化部*3の練成会にも参加して教えを学ぶようになった。
*1 山梨県南都留郡富士河口湖町にある生長の家の施設
*2 合宿して教えを学び、実践するつどい
*3 生長の家の布教・伝道の拠点
「神想観*4や浄心行*5などの宗教行を通し、『善一元の神のみ実在であり、現象は心の影であって本来ない』『人生で味わうことに無駄なことは1つもない』と知って、全てを見る目が一変し、生きる喜びが心の底から湧いてきたんです。窓際族に追いやられ、恨んでいた社長も『私の魂を磨いてくれる観世音菩薩様*6だった』と思えるようになり、感謝の思いが生まれてきたんです」
*4 生長の家独得の座禅的瞑想法
*5 過去に抱いた悪感情や悪想念を紙に書き、生長の家のお経『甘露の法雨』の読誦の中でその紙を焼却し、心を浄める行
*6 周囲の人々の姿となって私たちに教えを説かれる菩薩
それから心機一転、それまでいやいや出勤していた会社に喜んで通い始め、一所懸命、技術開発の仕事に励むようになった。その結果、開発に成功したのが、当時、最先端と言われた金型設計に用いる「ソリッド三次元CAD」だった。
「この技術を若手に指導して引き継ぐことで、会社全体が最先端のCADを自由に駆使して設計業務を行うことができるようになり、世界を市場とする他社と競合できるようになったんです。生長の家の教えを学んだおかげだと心から感謝しました」
それからほどなく社長とも和解し、今度はタイの工場に派遣され、7年間にわたって経営の第一線に立ち、見事に責任を果たした。
「社長はもちろんですが、私はマレーシア、メキシコ、タイでお世話になった皆さまを観世音菩薩だと思って拝ませてもらっています」
現在も顧問として会社に在籍する丸山さんは、毎日早朝から出勤して、研究に余念がない日々を送っている。