熊野和雪さん(75歳・広島市安芸区)

取材/原口真吾(本誌)

幼少期に、ブラジル出張中の父親が内乱の影響で一時消息を絶った。24歳のときに手紙を書いたところ、父親は20年ぶりに日本に帰った。家族が父親を責めるなか、妻から生長の家の教えを伝えられ、父親への感謝を深めることができた。64歳で退職後は自宅の田畑を市民農園として開放し、地域の人たちと共に自然と調和した生き方を実践している。

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ブラジル出張中の父親が消息不明に

 
 農機具の販売でブラジルに出張した会社員の父親が、内乱の影響でジャングルへ逃れ、そのまま消息が分からなくなったのは、熊野和雪さんが4歳のときだった。のちに無事と分かり、手紙のやり取りができるようになったが、父親はそのままブラジルに留まった。しかし、仕送りはなく、家計は苦しかった。

「祖母は田んぼや畑を耕し、母は日雇いの仕事をして、寝る間も惜しんで働きましたが、それでも苦しい生活でした。4人きょうだいの中で男は私だけでしたから、子ども心に、早く働きに出て母を助けなければと思うようになりました」

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 小学校の高学年から、新聞配達やゴルフ場でキャディーなどをして懸命に働いた。苦労はしたが、近所の人に「小さいのにえらいね」と褒められたり、クリスマスに新聞の配達先からプレゼントをもらったりするなどして、人の温かさに触れたため、辛いと感じたことはなかった。そのなかでも今も残る記憶がある。

「ある日、仕事が終わっておじさんが家まで送ってくれたんですが、そのとき、ポマードの匂いがして、『これが父の匂いか』と思い、急に父が恋しくなりました」

 4歳の時に離れた父親の記憶はほとんどなかったが、抑えきれない寂しさが込み上げ、祖母や母親に八つ当たりしたこともあった。

「母に、『友だちはお父さんと相撲を取ったり、キャッチボールをしたりしているんだよ』と嘆いたこともありました。そうしたら不憫に思ったのか、母が相撲を取ってくれたんです。母の愛情を感じて、とても嬉しかったのを、今も鮮明に覚えています」

市民農園として開放した、自宅敷地内を整備する熊野和雪さん。「地域の活性化と、“食”について考える場にしていきたいと思っています」 (写真/髙木あゆみ)

市民農園として開放した、自宅敷地内を整備する熊野和雪さん。「地域の活性化と、“食”について考える場にしていきたいと思っています」(写真/髙木あゆみ)

両親への感謝の大切さを学んで

 
 その後もアルバイトをして家計を助けながら学費を稼ぎ、大学に進んだ。在学中、大学の図書館で司書をしていた妻の民子さんと知り合い、卒業後は会社員として働き始めた。

「3人の姉が相次いで嫁ぎ、私も結婚を控えていた昭和49年、24歳のとき、父親に、『帰って家族とやり直すのか、ブラジルで骨を埋めるのか、決めてほしい』と手紙を書いたんです」

 すると、息子の切実な思いに心を打たれた父親は、20年ぶりに帰国し、家族が暮らす広島市に戻った。とはいえ、長年の空白を埋めるのは容易なことではなく、父親は、実母や妻、時折、実家に顔を出す3人の娘たちからも責め立てられた。

「私も同じ気持ちでしたが、父と私は家で2人だけの男ということもあって父が気の毒に思え、みんなの間に入って父をかばっていました」

自宅の台所で妻の民子さんと。朝食の際、一日おきに卵焼きを作るのを習慣にしている(写真/髙木あゆみ)

自宅の台所で妻の民子さんと。朝食の際、一日おきに卵焼きを作るのを習慣にしている(写真/髙木あゆみ)

 熊野さんを支えてくれたのが、父親の帰国後に結婚した民子さんから伝えられた生長の家の教えだった。

「妻から『神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ』といった親への感謝の大切さを説く話を聞いて、感謝まではいかなくても、父を裁かずにかばっていたことは間違っていなかったんだと勇気づけられました。父は平成4年、76歳で亡くなりましたが、『帰って来てくれて本当にありがとう』という気持ちで見送ることができました」

人間も自然の一部だと体感して

 
 父親の死後、会社員を辞め、父親から相続した田畑を手がける自営業に転じると、その仕事を通して生前の父親の人となりが分かってきた。

 父親は、地元の山で採れる鉱石を大学に分析してもらい、新しい資源の発掘に尽力したり、役所に鉄道の敷設を働きかけたりするなど、人のため先頭に立って行動する人だったと知り、尊敬の思いが湧いたという。

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 そうした父親に触発され、熊野さんも神社の清掃に取り組み、二男三女の子どもたちの学校の役員も積極的に引き受けたほか、自宅の畑に子どもたちを招いて野菜づくりを体験してもらうなど、ボランティア活動に力を入れるようになった。

「何より生まれ育ったこの地を愛する思いと、子どもの頃、苦労していたとき、周囲の皆さんから受けた恩を返したいという思いから、自然に体が動きました」

 50歳で再び会社員になってからはボランティアは途切れたが、64歳で早期退職した後、自宅の田畑を市民農園として開放した。

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 季節ごとに生命学園や近隣の家族を招き、三世代で交流する農業体験やブロッコリーの青虫取りなどさまざまなイベントを企画し、生長の家が説く「人間も自然の一部である」ことを体感している。
* 幼児や小学児童を対象にした生長の家の学びの場

「川でウナギを獲ったり、山で遊んだりしていた私などからすると、いまの子どもたちは制限が多くて窮屈そうに見えます。子どもたちが自然の中で思い切り遊べる場を作ってあげたいと思っています」

 熊野さんの市民農園は、「皆の学びと交流の場」であるだけでなく、都市化や高齢化が進むなかで、持続可能な農地のあり方、さらには災害時の拠点という側面も持ち合わせる。実際、平成30年の西日本豪雨で河川が氾濫したときは、農園がボランティアの拠点になり、撤去した瓦礫や土砂、被災ゴミの仮置き場として機能した。

春の日差しを受けて、市民農園の野菜も勢いよく葉を茂らせていた。「市民農園は、都市部にすむ鳥や虫たちの貴重な緑地でもあります」(写真/髙木あゆみ)

春の日差しを受けて、市民農園の野菜も勢いよく葉を茂らせていた。「市民農園は、都市部にすむ鳥や虫たちの貴重な緑地でもあります」(写真/髙木あゆみ)

「農園の重要性を伝えながら、ゆくゆくは農園の利用者が農産物の生産や販売を行い、地域の活性化につなげられたらと考えています。人のお役に立ち、自然と調和した生き方を実践することで、多くの人に生長の家の教えを伝えたいと思います」