義母から教えを伝えられ

 
 私は昭和52年に大学卒業後、東京の会社へ就職するため、実家を離れて一人暮らしを始めました。就職したのは、建設コンサルタントの会社で、主に港湾や鉄道などのインフラ整備を手掛けていました。

 仕事は順調で、37歳のときに、友人の紹介で交際していた5歳年下の女性と結婚しました。妻は音楽大学を出てバイオリン教室を主宰しており、大学時代にオーケストラ部でチェロを弾いていた私は、夫婦で地元のアマチュアオーケストラで活動するようになりました。

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 県外で暮らす妻の母は、生長の家を熱心に信仰していて、妻も義母の開く誌友会*1に参加したり、生長の家の本を読んだりして教えを学んでいましたが、私は興味がありませんでした。
*1 教えを学ぶつどい

 義母は生長の家の月刊誌を購読していて、私たちが結婚してから、毎月わが家に送られてくるようになりました。たまにページを開き、「人間は死なないいのちである」とか、「病本来なし」と書かれた記事を見て、一体なんのことなのかと思い、妻に尋ねたこともありました。そのたびに妻は丁寧に答えてくれるのですが、私にはよく理解できませんでした。

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生徒に褒めて伸ばす教育を実践

 
 義母は平成5年に亡くなりましたが、義母から生長の家の教えを伝えられた妻の弟の奥さんが、義母の代わりに月刊誌を送ってくれるようになりました。

 そんなある日のこと、九州で障がい者就労支援施設を営んでいる親戚から、仕事を手伝ってほしいと頼まれました。友人や知り合いもいない場所での仕事だけに躊躇しましたが、妻が背中を押してくれたこともあって、45歳のときに妻と共に東京から九州へ引っ越し、転職しました。

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 5年後に自宅を新築し、当時、首都圏で独り暮らしていた私の母を呼んで、3人での生活が始まりました。妻は自宅の一室を使って、バイオリン教室を開き、主に主婦や子どもたちが習いにくるようになりました。

 妻は生徒から慕われていて、どんな接し方をしているのだろうかと思いましたが、いま考えると、生長の家の教育法である「褒めて伸ばす」指導を実践していたことがよく分かります。私たち夫婦には子どもがいなかったこともあって、妻は子どもと接するのが楽しく、とてもやりがいを感じているようでした。

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妻が膵臓がんで余命宣告

 
 そんな妻に異変が起きたのは、平成26年に夫婦でオーストリアのウィーンに旅行へ行ったときのことでした。妻は頻繁に「疲れた」と言い、休憩しながらの観光となったものの、そのときは「疲れやすいのは年のせいよね」などと明るく言い、私も大して気にもとめませんでした。しかしその頃、妻はすでに病魔に侵されていたのです。

 妻は医者嫌いで、病院で診てもらうよう勧めても行こうとしませんでした。翌27年になって症状が悪くなったため、思いあまって病院へ行くと、「膵臓がんで余命3、4カ月」と診断されました。5歳年上の私の方が先に逝くとばかり思っていたため、気持ちが追いつかず、ただうろたえるばかりでした。

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 その年の12月から抗がん剤治療を始めましたが、副作用がきつく、自宅で緩和ケアを行うことにしました。それから自宅療養を続けていた翌年の4月、自宅のある地域で地震が発生し、妻が寝ている部屋の大きな本棚が倒れました。

 しかしその日、ふと思いついてベッドの位置を変えていたおかげで下敷きにならなくてすみました。妻は「お母さんが守ってくれた」と喜んでいましたが、それから間もなく、61歳で息を引き取りました。

妻の信仰を受け継ごう

 
 一人暮らしとなり、喪失感と寂しさと、これから先の人生への不安が入り交じった日々を過ごすようになりました。そんな中、妻がバイオリン教室で教えていた生徒さんたちが我が家を訪ねてきて、遺影に手を合わせてくれました。

 皆さんは、「先生は決して怒らず、いつも褒めてくださいました」「やさしい先生でした」と妻の思い出話に花を咲かせてくれ、私も知らなかった妻の一面を垣間見ることができて嬉しくなりました。さらに皆さんから「これから毎月1回、ここで先生を偲ぶ演奏会を開かせてください」と頼まれたのです。

 その言葉を聞いて、妻は本当に多くの人々に慕われていたことを実感するとともに、私を元気づけようとしてくださる生徒さんたちの心遣いに感謝し、承諾しました。コロナ禍で一時休止はあったものの、亡くなって9年が経った今でも毎月、生徒さんたちが集まって演奏会を開いてくださり、妻もさぞかし喜んでいると思います。

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 そんなある日、ふと生長の家の月刊誌のことが思い浮かびました。相変わらず妻の弟の奥さんから届いていたのですが、いつまでも購読料を払ってもらうのは申し訳ないと連絡すると、地域の生長の家の教化部*2で手続きができると聞き、初めて教化部を訪ねました。
*2 生長の家の布教・伝道の拠点

 教化部の建物へ入る前の敷地内に龍宮住吉分社があったため、手を合わせたとき、なぜか涙が溢れて止まらなくなりました。そのとき、妻が多くの人に慕われていたのは、義母から伝えられた生長の家の教えを実践していたからであり、妻が一番喜ぶのは、私が信仰を受け継ぐことだと強く思いました。

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 それから地元の誌友会に参加して、教えを学ぶようになりました。生長の家相愛会*3)の仲間たちとも出会い、物事を深く考えている皆さんと信仰ばかりでなく、さまざまなことについて、忌憚なく意見を述べ合う機会を得たのはとても貴重だったと思います。
*3 生長の家の男性の組織

 誌友会で行われる先祖供養祭で聖経*4を読むと、「人間は神からいのちをいただいた完全円満な神の子であり、永遠生き通しである」という教えが実感され、妻はいつも傍で私を見守ってくれていると思えるようになりました。
*4 生長の家のお経の総称

天地一切のものに感謝する生活

 
 昨年の4月、寝る前に歯磨きをしていると、顔の左半分が麻痺しているような違和感を覚えました。しかし、それほど気にならなかったため、そのまま寝てしまったのですが、翌朝になっても違和感は消えず、「あいうえお、かきくけこ」と、五十音を唱えてみると、「たちつてと」まできて、呂律が回らなくなってしまいました。

「これは脳の病気かもしれない」と直感し、お金や保険証、着替えなどを用意して、自分で救急車を呼びました。医師の診断は脳梗塞というもので、ちょうどその日、脳外科の医師がいて、すぐ手術を受けることになりました。振り返れば、こうした幸運に恵まれたのは、ご先祖様や妻が守ってくれたからに違いないと思います。

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 足の付根から首まで、動脈にカテーテルを入れて血流を改善する血管拡張手術を2回行ったのですが、すぐ病院へ行って手術を受けられたおかげで無事成功し、後遺症もなく回復することができました。

 今、家のベッドで眠り、朝目覚め、太陽の光を浴びること、食事をし、散歩して普通の生活が送れることが何よりの喜びです。

 これからも妻の供養に努めながら、天地一切のものに感謝する生活を送っていきたいと思っています。