大学卒業後、保育士として働いていた私は、26歳のときに、学生時代の軽音楽サークルで一緒だった男性と結婚しました。娘と息子の2人の子どもにも恵まれ、家族4人の幸せな生活を送っていました。ところが結婚8年目の平成9年のある夏の夜のこと、夫から突然耳を疑うような言葉を聞かされたのです。

「この家には自分の居場所がない。自分は家庭を持つべきではなかった」

 夫は取り乱したように「誰も自分のことを認めてくれない」と泣き崩れ、「明日からは家に帰らない」と言いました。

 テレビ番組の制作会社でディレクターを務める夫は、多忙を極め、泊まり込みになる日も多く、昼夜逆転のような生活で、その日も1カ月の海外ロケから帰ったところでした。そんな毎日だったので、疲れ切って精神的に弱っているからこんなことを言い出すのだろうと、その時の私は思いました。

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 翌日、昨晩の話は嘘であってほしいと思いながら、仕事に行く夫の後ろ姿を見送りました。しかし、その日を境に本当に夫は帰ってこなくなったのです。そして数日後、ウィークリーマンションを借りたと電話がありました。夫は穏やかな人ですが、自分の思ったことを貫く芯の強さを持っていました。それでも私は、いずれ帰ってくると信じるしかありませんでした。

 結婚後の私は、家庭を守るのは妻の役目だと思い、娘を出産後は仕事を辞め、家事や育児に専念してきました。しかし考えてみると、子ども中心の家庭に夫は寂しさを感じていたのかもしれません。妻として夫に尽くしてきたつもりでしたが、あの晩、私の考えにはついていけないと言った夫の言葉を思い出し、何事もきちんとしたい私についていけないと、夫は感じていたのかもしれないと思いました。

 テレビ業界という華やかな世界で生きているので、夫が浮気でもして家を出たのかもしれないと疑いましたが、夫はそうではないと言います。浮気だったら諦めがつき、どんなにか気持ちが楽だろうと思ったのは一度や二度ではありませんでした。

 不安が募って、生長の家の教えを学んでいる姉に相談すると、「神様がもっともふさわしい解決を与えてくれるから、聖経*1を読んで神様に全托しなさい」と言われ、結婚後姉が送ってくれた聖経を久しぶりに取り出して読むようになりました。聖経を読んでいる間は、離婚やこれから先の暮らしの不安を忘れ、心が落ち着くので一心不乱に読み続けました。
*1 生長の家のお経の総称

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 私は生長の家を信仰する家庭で育ち、実家の書棚には生長の家の書籍が並んでいて、それらの本を熱心に読んでいた父は、私たちに「人間は神の子。無限の力があるんだよ」といった話をよく聞かせてくれました。

 両親に相談すると、父は「そんな自分勝手で無責任な男とは離婚しろ」と言いました。そして、離婚調停の申立てを父に勧められ、家庭裁判所を訪ねました。しかし書類の不備で申立ては受理されませんでした。その時、受理されなかったのは神様のお計らいなのだと感じました。

 夫の両親にも電話をしました。義父は「あなたたちの2人の子どもはかわいい孫だから、これからも関係は変わらない」と温かい言葉を掛けてくれ、少し安心しました。しかし後日夫から、義父は私と孫にどう接していいか分からず困惑していると言っているから、電話をしないでほしいと告げられました。良好だった義父母との交流が突然絶たれた瞬間でした。

 それでも、私は夫のことが好きでしたし、夫の仕事を応援したいという気持ちに変わりはありませんでした。夫は入社後、番組制作のAD(アシスタントディレクター)を経て、才能や努力が評価されてディレクターになり、仕事に打ち込んでいました。主に音楽番組やファッション番組を作っていましたが、私は夫が制作した番組を観るのが楽しみでしたし、思う存分仕事をしてほしいと思っていました。

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山村留学と、つかの間の再会

 
 夫が家を出て数カ月後のこと、自宅のポストに地域の情報紙が入っていて、それが私の運命を大きく変えることになりました。情報紙に載っていたのは、ある地方の町が小学生の山村留学を募っているという記事でした。山村留学とは、自然豊かな田舎の町に移住し、子どもは地域の小学校で学びながら、さまざまな自然体験を行う制度です。

 都会で育った私は、子どもたちを自然に恵まれた土地で育てたいという願いがあり、夫のことは気がかりでしたが、「これだ!」と思って応募しました。豊かな自然が私の心を癒やしてくれると思ったのです。それまでは都会の賃貸マンションに暮らしていたので、田舎暮らしをすれば夫に負担してもらっている生活費があまり掛からずに済むことも、大きな理由でした。

 幸いにも留学が認められ、平成10年3月娘の幼稚園卒園の翌日、小学校入学を楽しみにする娘と3歳の息子を連れて、親子3人で引っ越すことにしました。そのことを夫に電話で報告すると、とても驚いた様子でした。夫は私が実家に戻るものと思っていて、まさか遠く離れた田舎に行くとは思っていなかったのです。娘と息子には、「お父さんはお仕事が忙しいから離れて暮らすのよ。それにお父さんは寒がりだから、寒いところで暮らすことはできないの」と話し、知らない土地へ行く子どもたちの気持ちも確認しました。

 新しい町は山や川などの自然が豊かで、子どもたちもすぐに大喜びで慣れてくれました。私たちは公営住宅に入りました。

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 夫からは生活費の送金がありましたが、移住した年の6月頃からそれが途絶えました。私は不安に思い、夫に連絡をすると驚くことを聞かされました。勤めていた会社が倒産し、社長は雲隠れして行方不明になった。自分は社長の連帯保証人だったので、会社が抱えた多額の負債をかぶることになったと言うのです。夫はヘッドハンティングされて、この会社に移りましたが、転職する時に連帯保証人になっていたのでした。そして、私に連絡をしなかったのは、借金の取り立てが及ばないためだと話しました。

 私は夫の話を聞くうちに、思わず「大変だね」という言葉が出ていました。夫に何もしてあげられないことがつらく、私にできることは娘と息子をしっかりと育てることだという思いを一層強くしました。

 そして翌年の冬、夫から突然電話がありました。「朝一番の飛行機に乗って、今空港に着いた。これからそちらに行く」と言うのです。夫は空港からバスと列車を乗り継いで本当にやって来ました。「行かなくては」という思いに駆られ、仕事のスケジュールの合間を縫って来たそうで、どんな暮らしをしているか知りたかったと言いました。

 私は驚きましたが、日課にしていた聖経読誦と祈りが通じたのだと嬉しく思いました。その日の飛行機で帰るというので、わずか1、2時間ほどでしたが、夫の顔を見ることができて安心しました。娘は学校に行っていて会えませんでしたが、息子は会うことができました。しかし息子は夫が誰だか分からないようだったので、夫は寂しさを感じたかもしれません。

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心の支えとなった言葉

 
 私のことを心配する姉は、地元で開かれている生長の家の誌友会*2に参加するように勧めてくれました。ある日、新聞に生長の家の月刊誌の広告が載っているのを見て年間購読を申し込み、その月刊誌に載っていた教化部*3の連絡先に電話を掛け、近所で開かれている誌友会を紹介してもらいました。
*2 教えを学ぶつどい
*3 生長の家の布教・伝道の拠点

 初めて参加した誌友会はとても楽しく、信徒の皆さんから「よく来てくれましたね」と歓迎されたこともあって、それから毎月息子を連れて通うようになりました。「人間は神の子、神様は善きことしか創られない。乗り越えられない問題はない」といった真理の話を聞くたびに、励まされて心が軽くなっていき、夫を含めて家族全員で聖使命会*4に入会しました。
*4 生長の家の運動に賛同して献資をする会

 そんなある日、下腹部を激しい痛みが襲い、緊急搬送してもらうと、卵巣のう腫茎捻転と診断されました。卵巣の中に液状成分がたまって腫れ、さらに卵巣と子宮をつなぐ靭帯がねじれて痛みが起きているということでした。片方の卵巣を摘出する手術を受け、10日ほどの入院で回復しましたが、夫との感情のもつれによる悲しみが症状として現れただけで、「出たら消える、これで良くなる」と心の中で自分に言い聞かせました。(つづく)