生長の家との不思議な縁

 
「人間は完全円満な神の子であり、人のお役に立つ生き方が人生の本当の喜びである」──高校3年生のとき、同級生の友人から誘われ、初めて参加した生長の家青年会*1の誌友会*2で聴いたこの言葉が、その後の私の生きる指針となりました。
*1 12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織
*2 教えを学ぶつどい

 その頃の私は、「なぜ自分はこの世に生まれたのだろうか」といった哲学的な問題に頭を悩ませていました。悶々とした日々を送っていたとき、友人から勧められてある新興宗教の集会に何度か参加しました。しかし、そこで参加者が唱えるお題目や他の宗教を批判する教義に馴染めず、足が遠のくようになりました。

 そんな折に参加したのが、青年会の誌友会だったのです。その誌友会には7、8人の参加者がいて、明るく和やかな雰囲気で、久しぶりに心が晴れる時間を味わいました。

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 帰宅して、母に「人間は完全円満な神の子であって、人のお役に立つ生き方が人生の本当の喜びという話に感動した」と言うと、「生長の家はいい教えだよ」という答えが返ってきて驚きました。

 よく聞くと母は、昔、生長の家の月刊誌を読み、教えを知っていたことが分かったのです。生長の家との不思議な縁を感じた私は、それから誌友会や輪読会に参加して教えを学ぶようになりました。

心臓弁膜症が癒えて

 
 ところが、それから程なくして突然、体調不良に見舞われました。病院で診察を受けると、心臓弁膜症との診断で即入院となってしまったのです。1カ月後に控えていた高校の卒業式で、総代として卒業証書を受け取る予定だったため、それが叶わなくなってやりきれない思いでした。

 悔しさを抱えて入院したのですが、私を誌友会に誘ってくれた友人が、生長の家の月刊誌や書籍を持参して見舞いに来てくれたことに嬉しさを感じました。友人から「必ず良くなるから」と励まされ、月刊誌や書籍を読み、「神様からいのちをいただいた人間に、本来病気はない」といった言葉に勇気づけられました。すると、見る見る体調が回復していき、手術を受けることなく退院することができたのです。

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 退院して高校を卒業した昭和44年、地元の鉄鋼機械メーカーに就職し、発電所などで使用される部品を製造する工場に配属されました。その傍ら青年会に入って伝道活動に力を入れるとともに、行事の運営にも携わるようになって、充実した毎日を送るようになりました。

 その頃、交際していたのが同い年の従姉妹でした。私はある時、思い切って彼女を生長の家の講演会に誘ってみました。すると、拍子抜けするほど快く参加してくれた彼女は、「神様は、どんなときも私たちを導いてくださっているという話が心に響いた」と言い、それから一緒に誌友会に参加して教えを学ぶようになりました。さらに「もっと教えを学びたい」と言って、『生命の實相*3全40巻を買い揃えて読み、私よりも熱心に信仰するようになったのです。
*3 生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。全40巻

 数年後、私は彼女と25歳で結婚し、兼業農家を営む実家の隣に建てた家で新しい生活が始まりました。

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 その一方、私の仕事は年々忙しくなって、30歳を過ぎてからは、出張で全国を飛び回るようになりました。出張に出ると1週間は帰れないことが続き、残念ながら青年会からは離れざるを得なくなりました。

 3男1女、4人の子どもを授かり、妻は子育てに追われる毎日となりましたが、ありがたかったのは、いつも私に心を砕いてくれたことでした。あるときは、妻が手作りの日本地図を居間に貼って、子どもたちに「お父さんは、今、〇〇県に行ってお仕事しているのよ」と、私の出張先を色付きのピンで指し示したりしてくれました。子どもたちに、不在がちな父親を身近に感じてほしいという配慮からでした。

 また、時に仕事のことで愚痴をこぼすと、「みんな素晴らしい神の子だから大丈夫よ」と励ましてくれ、大きな支えになりました。

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神様からの導きを直感

 
 しかし、45歳になったある日、突然、提携する大手総合電機メーカーへの出向を命じられました。本社への出向で栄転ではありましたが、その会社は遠方にあって、長期の単身赴任が条件でした。

 当時、4人の子どもは小、中学生とまだ手がかかる時期で、それを考えるととても受け入れられず、妻に相談すると、「辞めても構わないわよ。あなたが決めた道を進んでください」と言ってくれたのです。

 妻の後押しを受けて、私は会社に退職願いを提出しました。ところが数日後、「出向せよということは、新しい場で人のお役に立ちなさいという神様からの声なのではないか」という思いが湧き上がりました。生長の家の活動からは遠のいていたものの、神想観*4や聖経*5読誦は日課として続けていたので、これは神様の導きだと直感したのです。
*4 生長の家独得の座禅的瞑想法
*5 生長の家のお経の総称

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 妻にもこの思いを話し、同意を得た上で、退職願いを取り下げて新しい任地に行くことに決めました。

 出向先では、工場が製造する大型機械に使う部品の検査やメンテナンスの仕事を任されました。当初は不安もありましたが、間もなく、社員の愛社精神が強いことが分かり、不安もすぐに消えました。

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 それでも、仕事を進める中でさまざまな課題が出てきました。発電所で設置している機械を検査するには資格が必要なため、資格試験に合格する必要がありますが、何度受験しても受からない社員がいたり、人間関係のもつれで上司や同僚への愚痴をこぼす社員もいました。

 あるとき、何度試験を受けても合格できない若手社員から、「学科試験には受かっても、実技試験になると緊張してミスしてしまうんです」と悩みを打ち明けられました。私は「人間は無限の力を持っているから、絶対大丈夫。きっと合格するから諦めないでチャレンジして」と励ましました。

 そして彼と一緒に実技の練習をし、再び試験に送り出すと、見事に合格したのです。そのときの、彼の晴れやかな笑顔は今も忘れられません。

支えてくれた妻に感謝の日々

 
 単身生活は定年まで20年に及びましたが、平成25年、65歳の定年を迎えて地元に戻りました。

 父は既に他界していたものの、兼業農家のわが家は、私が不在のなかで母と妻が畑で野菜作りを続けてきました。間もなく母が脳梗塞を患って入院したため、畑は私と妻で引き継ぐことになりました。

 そんなとき、青年会時代の先輩から、休会している地元の相愛会*6を再開したいので協力してほしいと頼まれました。母の介護や畑のことが頭を過りましたが、「神様に恩返ししたい」という思いが募り、自宅で相愛会の誌友会を開催するようになり、毎月続けています。
*6 生長の家の男性の組織

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 畑では大根、レタス、ピーマンなど40種類以上の野菜を有機農法で育てていて、朝4時には起床して神想観を実修し、聖経『甘露の法雨』*7を読誦した後、畑に出るのが日課です。作業の合間、畑の中で『大自然讃歌*8を読み、自然に包まれて生きる幸せを実感しています。
*7 生長の家のお経のひとつ。現在、品切れ中
*8 生長の家総裁・谷口雅宣著、生長の家刊

 母は平成31年に99歳で亡くなり、今は妻との2人暮らしですが、私が単身赴任で不在中も黙々と家事、育児に励んで、支え続けてくれた妻には感謝で一杯です。

 今は地域の民生委員を務めながら、人のお役に立つ喜びを噛みしめています。