イラスト/ろぎふじえ

イラスト/ろぎふじえ

 キリスト教を信じるか、あるいはイスラームか。それとも……。宗教を信仰するということは、大切な価値観を持つことですから、信じる教えが異なれば、お互いの価値観の優劣を競(きそ)って、時には武力による争いに至ることもあるでしょう。

 例えば、フランスのカトリック教会とプロテスタントとの争いから発展した宗教戦争であるユグノー戦争(1562~98年)はその一つです。フランス王がプロテスタント(ユグノー)を冷遇(れいぐう)したことに端(たん)を発しており、ナントの勅令(ちょくれい)(1598年)によって争いは収まりました。当時のヨーロッパは宗教と国家は密接に関係していて、祭政一致が基本でしたが、この勅令ではプロテスタントに信仰の自由と、カトリックと同等の政治的権利を認めました。これにより、ヨーロッパにおける政教分離が進んだと考えられています。

 こうした宗教戦争や、宗教の違いをきっかけとする紛争の悲惨な経験から、国教を定めることは国民を幸福にしないのではないか、と考えられるようになります。その結果、宗教は個人の自由にまかせ、国家と宗教を分けるのが望ましい、とされるようになりました。すなわち多様な宗教が共存できることが望ましいと考えられるようになったのです。

 近代憲法の原型を作ったと言われるアメリカ合衆国憲法では、発効した翌年の1789年に国家が特定の宗教を国教とすることが禁止され、また国家による宗教活動の規制も禁止されました(修正第1条)。これは単純に信教の自由を保障するというものではなく、国家の宗教への介入(かいにゅう)、政治への宗教(教会)の介入をともに禁止した、政教分離の考え方をとるものとされています。

 日本国憲法も第20条において信教の自由が定められています。ここでは、個人やその集団の信教の自由を保障する(無信仰を含む)とともに、信教に対する最も大きな脅威(きょうい)である国教を否認して政教分離が行われています。

 さて、生長の家では「真理そのもの」は一つであると考えます。すなわち、人類に共通する救いの原理はただ一つであると説くのです。では、なぜ世界に多くの種類の宗教があるかと言えば、それは「真理そのもの」がいくつもあるのではなく、「真理の表現」が多くあるからだと説明します。例えば、日本語で「神」と表現されるものが英語では「ゴッド」、中国語では「天」などと表現されるため、いずれも同じものを指しているにもかかわらず、違うものであると考えられてしまうことが挙げられます。このように表現が多様であることが理解できるならば、宗教は争うのではなく、お互いを尊ぶことができるようになるでしょう。

 立憲主義における「信教の自由」は、宗教が公正に共存できる社会生活の枠組みを構築するものですが、生長の家の教えは、立憲主義が目指す「宗教の共存」という目的にも大いに貢献できるのです。(生長の家国際本部国際運動部講師教育課)

参考文献 
・谷口雅宣監修『誌友会のためのブックレットシリーズ3 “人間・神の子”は立憲主義の基礎──なぜ安倍政治ではいけないのか?』(生長の家、2‌0‌1‌6年)
・長谷部恭男著『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2‌0‌0‌4年)