
齋藤貴之(さいとう・たかゆき)さん│44歳│仙台市
「毎朝、午前4時半から神想観を実修するのが日課です」と語る齋藤さん。その柔和な顔から誠実な人柄が偲ばれる。生長の家宮城県教化部で
取材/多田茂樹 写真/遠藤昭彦
毎朝、午前4時半に神想観を実修するのが日課
仙台市に住む齋藤貴之さんの朝は早い。午前4時頃に起床し、4時30分から約30分間、生長の家独得の座禅的瞑想法である神想観を実修する。そして5時半には、市内にある職場の自動車教習所に出勤するのが日課となっている。
「毎朝、神想観をして神様が創られたままの円満完全な実相世界を心に描いて祈ると、神様のいのちと自分のいのちは一つであるという思いが深まり、清々しい気持ちで一日を始めることができます」
子どもの頃に、父方の祖母と両親から生長の家の教えを伝えられた齋藤さんは、中学、高校と陸上部に入り、中学時代は100メートル、高校時代は800メートルの選手として活躍。その一方で、高校生のときに生長の家の青年会(*1)に入り、生長の家の教えを伝える活動にも励んだ。
「陸上大会のときは、いつも自分に『人間は神の子で、無限の力がある』と言い聞かせ、心の中で唱えながら出場しました。そうすると不思議に気持ちが落ち着いて、いい成績を残すことができました」
ただその頃は、今のように毎日神想観を実修しているわけではなかった。青年会の一員として、生長の家の講習会や青年会の全国大会の推進をする際には、その盛会を祈って熱心に神想観をしたが、そのときに限られたものだった。
「何かあるときだけは神想観をするんですが、それ以外はやらない日が多かったと思います。今考えると、何かの願いを叶えるために神想観をしていただけで、本当の神想観とはどういうものなのか、全く分かっていなかったんです」
ゼネコンで難工事に直面。それが信仰を深めるきっかけに
神想観の本当の意義に目覚めたのは、大学の建築科を卒業し、ゼネコン(総合建設業)で働くようになってからだった。
4月に入社して間もなく、齋藤さんは、岩手県雫石町で始められた道の駅の建設現場に派遣された。この町は、日本でも有数の豪雪地帯として知られ、雪が降る前までに出来る限り工事を進捗させなければならず、通常の工事よりも無理を重ねることになった。
「工事に携わった我々社員は、1つのアパートを借りて一緒に暮らしていたので、プライベートもなくなってしまい、仕事で疲れた上、人間関係でも疲れ、ぎすぎすした感じになっていました」
工事を急ぐなかで作業員が転落してケガをするなど思わぬ事故も多発し、応援もなかなか来ないなど現場は混乱した。
「後で聞いた話では、この頃、会社は赤字続きだったこともあり、工事が思うように進まなくなっていたということでした。そのため、現場の雰囲気は暗く、いつも所長の怒鳴り声ばかりが響くという状態でした」
現状を打開するため、齋藤さんは盛岡市内の下宿屋に移ることにした。工事現場からはやや遠くなるものの、あえてそこを選んだのは、下宿の家主が宮城教区の青年会でお世話になった知人だったからだった。
その下宿屋への移転が、神想観の本当の意味を学び、信仰を深めるきっかけとなった。
円満完全な実相世界を念じ、心で見つめるのが神想観
下宿してすぐ目に留まったのは、知人の母親が、毎日熱心に神想観を実修していることだった。祈りの言葉を唱え、神様が創られたままの円満完全な実相の世界をひたすら祈るその姿を見たとき、齋藤さんは、はっと気づかされた。
「不完全な現象をなんとかしようというのではなく、神様と一つになって円満完全な実相世界を心で念じ、それを現象世界に現すための行が神想観なんだと初めて分かったんです。神様とつながることを忘れ、仕事や人間関係のマイナス面だけを見ていた自分を心から反省しました」

生長の家宮城県教化部職員の相澤俊弘さんと行事の打ち合わせをする
それから齋藤さんは、心を込めて神想観を実修し、神様と波長を合わせながら工事のスムーズな進展を祈るようになった。最初のうちは10分、15分ほどの短い神想観だったが、続けるうちに徐々に時間が長くなり、それにつれて心が解放されていくのを感じるようになった。
「自分の心が癒されると、仕事においても、『早く工事を終わらせなきゃ』という切羽詰まった気持ちから、『何とかなる。いや絶対大丈夫だ』という前向きな気持ちに変わることができました」
すると、本社から応援部隊が駆けつけてくれるなど、工事が早く進み、工期内に完了することができたという。
「本当に神想観の功徳だと思いました。今、当たり前のように神想観ができるのも、このときの体験のおかげだと感謝しています」
会社の経営破綻も前向きに受け止めて
入社して4年後、26歳のときに、勤め先のゼネコンが経営破綻するという事態に直面した。しかし、一層熱心に神想観に励むようになっていた齋藤さんは、悲観することなく、前向きに受け止めた。
「各地の現場を転々とする仕事だったため、4年の間、一度も青年会の活動ができませんでした。これは、仙台に帰って、青年会の活動を再開するいい機会だと思い、私に相応しい新しい仕事が見つかりますように、そして、また青年会の活動ができますようにと祈るようになったんです」
すると、仙台に戻ってすぐ、現在の自動車教習所の教習指導員という仕事が見つかり、大学時代から付き合っていた奥さんと結婚。青年会の活動も再開し、平成17年から26年には、教区青年会委員長という大役を務めるまでになった。
平成23年3月11日、東日本大震災が発生したときも、齋藤さんは教区青年会委員長として、青年会の仲間や生長の家宮城県教化部(*2)の職員と「災害支援隊」を結成し、信徒や周辺住宅の復旧活動に尽力した。
「私の家は、海から6キロほど離れていたため、津波の被害はなく、室内が散乱し、玄関のドアが開かなくなったりはしたものの、妻も子どもも無事でした。しかし、知人や青年会の仲間とはなかなか連絡が取れなかったため、このときも一人一人の顔を思い浮かべながら、真剣に神想観を行い、無事を祈りました」
その後、幸いにも知人や青年会の仲間の無事が確認できたという。
祈りを通して相応しい新居が与えられる
もう一つ、神想観の功徳としてこんなことがあった。
齋藤さんの家族は現在、妻、中学3年の長男、中学1年の長女、小学4年の次女の5人だが、震災の4カ月前に次女が生まれ、家の狭さを実感するようになった頃から、齋藤さんは「家族に相応しい新しい家が既に与えられました」と、神想観の中で祈るようになった。すると間もなく、今住んでいる家をネットで探しあてた。

「祈りによって、自動車教習所の教習指導員という仕事が与えられました」
「当初この家は、予算をオーバーする値段だったため、そのときは諦めたんですが、しばらく経って再び検索したところ、同じ物件が200万円も値下がりしていたんです。不動産屋の話では、一度購入した方がローンの関係で手放したため、大幅に値が下がったとのことでした。私達のために安くなったと感じ、これも神様の導きだと感謝しました」
現在、宮城教区の生長の家教職員会(生教会)の会長を務めている齋藤さんは、会議などで宮城県教化部に出向くことが多いが、家から教化部までは、自転車で30分から40分ほどで行けるので、とても便利だという。
子どもの天分が発揮されるよう夫婦で祈り続けたい
今、齋藤家では、子どもが小学6年生になると、将来どういう仕事をし、そのためにどんな学校に進みたいかを話し合っている。
それによると、長男は、環境問題に興味を持っているため、エネルギー分野で地球環境保全に貢献したいと国立大学への進学を希望し、子どもが好きな長女は、保育士になるための学校に入ることを希望しているという。
「コロナが収まらない中ですが、次女は看護師になる夢があり、多くの方々のお役に立ってもらいたいと願っています。いつも3人の子どもそれぞれに与えられた天分を発揮できるよう、妻と共に神想観で祈っており、私たちが祈る姿を見て、生長の家の信仰を受け継いでくれたらいいなというのが一番の望みですが、あくまで子どもの自主性に任せようと思います」
そう言って、齋藤さんは柔和な笑みを浮かべた。
*1=12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の集まり
*2=生長の家の布教・伝道の拠点