A いいえ。政治家も国民も立憲主義を正しく理解していました。
前回、日本はドイツと同じように、“上からの近代化”のために、国家を統一して国民を統合(とうごう)する道具として明治憲法をつくったと述べました。では、明治の政治家や国民は、人権保障と権力分立(けんりょくぶんりつ)に基づく立憲主義を知らなかったのでしょうか?
1868年の明治維新によってできた新政府は、欧米の植民地化政策に対抗できる近代国家を建設するため、西欧諸国(せいおうしょこく)の憲法と国家のあり方を研究しました。たとえば、江藤新平(えとうしんぺい)はフランス、大隈重信(おおくましげのぶ)はイギリスをモデルとした国家構想をそれぞれ持っていました。大久保利通(おおくぼとしみち)は、ただ君主一人のことではなく国全体のことを考え、人びとの自由を実現するのが民主政体だと述べました(*1)。
また、明治憲法制定の中心人物であった伊藤博文(いとうひろぶみ)は、君主の権利を制限し、国民の権利を保護するのが憲法であると言いました(*2)。
つまり、明治の政治家は、近代立憲主義について正しく理解していたのでした。
一方、民間に目を向けると、近代立憲主義を実現しようとする本格的な動きがありました。自由民権運動です。
たとえば、この運動の理論的指導者であった植木枝盛(うえきえもり)は、「東洋大日本国国憲按」のなかで、立法権をすべての国民に属するものとし、国会中心の統治体制を構築することを提案しました。そして、人民の自由や権利をきめ細かく保障し、ジョン・ロックが唱えた抵抗権を認めるなど、自由主義的・民主主義的な憲法案を示しました(*3)。
また、東京・五日市の自由民権運動家であった千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)は、「五日市憲法草案(いつかいちけんぽうそうあん)」を示しました。これは、国民の権利の項目に多くの条文が割(さ)かれた、現在の日本国憲法と比較しても引けを取らない民主的な憲法草案でした(*4)。
自由民権運動は明治政府によって弾圧(だんあつ)されました。しかし、「個人の尊重」の理念に基づく人権保障や権力分立の考え方は、時を経て、日本国憲法へと継承されていったのでした。
*1 大浜啓吉著『「法の支配」とは何か』ⅲページ、岩波新書刊
*2 伊藤真著『伊藤真の日本一やさしい「憲法」の授業』48ページ、KADOKAWA刊
*3 「植木枝盛の憲法構想」(国立国会図書館ホームページ「史料にみる日本の近代」)http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html(2018年4月21日アクセス)
*4 「五日市憲法草案とその評価」(あきる野市デジタルアーカイブ「あきる野市と自由民権運動」)http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hyouka.html(2018年4月21日アクセス)