A「信仰の自由」は基本的人権の根源であり、自由がなければ善を実現することができないからです。

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 信じたい宗教を信じる自由と、どんな宗教も信じない自由を「信仰の自由」と言います。日本国憲法では、第20条で「信教の自由」として規定されています。

 信仰の自由の成り立ちは、中世ヨーロッパにまでさかのぼります。当時、人としての正しい生き方は、カトリック教会が教える生き方だと決められていました。しかし、宗教改革が起こり、プロテスタントが生まれると、両者は対立するようになります。ここで国は、どの宗教を信じるかを個人の良心の自由には任せず、ある一つの宗教を権力によって国民に押しつけようとしました。その結果、異なる信仰を持つ者同士が争う悲惨(ひさん)な宗教戦争が起きたのです。「その宗教戦争の教訓から、『信仰の自由』を権力に守らせ、多様な宗教の共存をはかることが立憲主義の重要な目的の一つになりました(*1)」

 このようにして成り立った信仰の自由は、今や立憲主義にとって不可欠な要素となっています。なぜなら、自分が信じる通りに生きる自由や信じたくないものを信じないで生きる自由が認められなければ、他の自由も認められないからです。つまり、信仰の自由は、基本的人権の根源だと言えるのです。

 生長の家では、人間にとって自由はとても大切であると考えます。なぜなら、自由は善の実現にとって必要不可欠だからです。たとえば、幼い子供が怖い親に強制されて、見かけ上“善(よ)い行為”を行ったとします。しかし、子供が自由に選び取ったのではない強制された行為は、本当の意味での善い行為とは呼べないはずです。そんな行為が真に善を実現することはありえません。

 このように、善の実現には、「絶対価値を持った一人ひとりの個人が、何を信じ、どのような生き方を正しいと考えるかを、自由な選択によって主体的に決めること(*2)」が必要です。そして、そのような生き方をできることが、“神の子”と呼ばれる人間本来のあり方なのです。(生長の家国際本部国際運動部講師教育課)

*1 生長の家総裁・谷口雅宣監修『“人間・神の子”は立憲主義の基礎 ──なぜ安倍政治ではいけないのか?』10ページ。生長の家刊
*2 前掲書、23ページ