新首相に就任した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)のもと、国務大臣の松本烝治(まつもとじょうじ)を委員長とする憲法問題調査委員会が発足したのは、1945年10月25日のことでした。しかし、日本政府はまだ憲法改正への消極的な姿勢を崩しておらず、同委員会は閣議了解で決定された非公式な組織にすぎませんでした(*1)。
その活動の一端が明るみに出たのは、1946年2月1日のことです。同委員会で作られていた改正案が、『毎日新聞』によってスクープされたのでした。その内容は明治憲法と大差ないもので、天皇の統治権には手を触れず、国民の人権も法律で制限できるようになっていました(*2)。
『毎日新聞』は、この改正案を「あまりに保守的、現状維持的」と報じました(*3)。が、それにも増して危機感を覚えたのは、ポツダム宣言を執行(しっこう)するため日本で占領政策に携(たずさ)わっていたGHQの最高司令官マッカーサーです。このような案が公的に発表されれば、連合国内の対日強硬論を刺激(しげき)することは明らかだったからです(*4)。
なぜ、マッカーサーは対日強硬論を恐れたのでしょうか?
その頃、連合国内では占領政策の最高機関として、新たに極東委員会が設置されようとしていました。11カ国からなるこの組織は同年2月26日に発足することになっており、それ以降はGHQもその決定に従わねばなりませんでした。また、連合国内には天皇の戦争責任を巡(めぐ)って対立があり、ソ連、オーストラリアなどは、天皇を戦争犯罪人として裁判にかけることを主張していました(*5)。
一方、マッカーサーは天皇が告発されれば日本人の大騒乱を引き起こし、占領を維持するために100万人の軍隊が必要になると危惧(きぐ)していました(*6)。そこで彼は、極東委員会が活動を始める前に民主的な憲法を成立させ、天皇制の存続を既成事実化することを考えたのです。しかし、先のスクープは、日本政府が独力で民主憲法を制定するのを待っていたのでは、極東委員会の活動開始に間に合わないことを示していました(*7)。
マッカーサーの動きは速(すみ)やかでした。スクープの2日後には、改憲作業のベースとして日本政府に提示するための改正案の作成を命じていました。そこで、法律家のメンバーを中心とした8つの委員会が編制され、9日間で草案を完成させたのです(*8)。
並行して、GHQは日本政府案も検討していました。2月8日、松本委員長から最終的な案が提出されると、ポツダム宣言の要求を満たすかどうか評価が行われ、不十分と判断されました。同宣言を履行(りこう)するには、憲法に国民主権や人権の保障を明示する必要がありましたが、日本政府案にはそれが欠けていたのです(*9)。
この政府案の合否が日本側に告げられることになっていた2月13日は、憲法改正の行方に決定的な転機をもたらす一日となりました。吉田茂外相、松本委員長ら集まった日本の関係者は、突然、GHQが作成した草案を手渡され、驚愕(きょうがく)したのです(*10)。
こうしたマッカーサーのやり方は将来に大きな禍根を残すものでした。憲法をアメリカから押しつけられたという議論が、ここから生じたからです。しかし、GHQが草案を作成した理由が、ポツダム宣言の要求に対する日本政府の認識不足にあったことは否定できません(*11)。
では、日本国憲法の条文は、GHQが日本人の意思とは無関係なところで作り上げたものなのでしょうか? 次回以降、見ていくことにしましょう。(生長の家国際本部 国際運動部講師教育課)
参考文献
- 古関彰一著『日本国憲法の誕生』(岩波書店、2015年)
- 辻村みよ子著『比較のなかの改憲論─日本国憲法の位置』(岩波新書、2014年)
- 塩田純著『日本国憲法誕生 知られざる舞台裏』(日本放送出版協会、2008年)
- 大嶽秀夫著『二つの戦後・ドイツと日本』(日本放送出版協会、1993年)
*1=古関彰一著『日本国憲法の誕生』岩波書店、p.72
*2=辻村みよ子著『比較のなかの改憲論─日本国憲法の位置』岩波新書、pp. 86-87
*3=『日本国憲法の誕生』p.89
*4=『比較のなかの改憲論─日本国憲法の位置』p.87
*5=同書、p.92-93
*6=塩田純著『日本国憲法誕生 知られざる舞台裏』日本放送出版協会、p.84
*7=大嶽秀夫著『二つの戦後・ドイツと日本』日本放送出版協会、p.89
*8=『比較のなかの改憲論─日本国憲法の位置』p.87-89
*9=『日本国憲法の誕生』pp.148-149
*10=同書、p.150
*11=同書、p.89