「人間は神の子、無限力がある」という教えを学び、脱サラして弁当店を始めた夫を支えながら、3人の息子を育てる多忙な日を過ごした。
高校を卒業後、夜間の専門学校に通っていた長男が交通事故を起こして入院した時、生長の家の仲間たちが祈ってくれた。感謝でいっぱいになり、自分の幸せのためだけでなく、人様の幸せのために信仰しようと決意した。
桝谷敦子
68歳・和歌山県橋本市
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クリーニング店を営んでいた父は職人気質で、母にもきつく当たることがありました。子どもの頃の私は、「悪いのはお父さんなのに、お母さんはなぜ言いなりになるんだろう」と理不尽に感じていました。
父は跡取りが欲しくて、私か妹が婿養子をもらうことを望んでいましたが、私は自動車ディーラーに勤める7歳年上の夫と結婚して嫁ぎました。自営業の大変さを知っていたので、「結婚するならサラリーマンの人」と思っていたからです。
結婚した翌年に長男が誕生すると、父はとても喜び、目に入れても痛くないほど可愛がってくれました。2年おきに次男と三男も生まれ、わが家はとてもにぎやかになりました。
夫は毎日仕事の帰りが遅く、1人で子育てする私の手助けをしようと、両親が頻繁に自宅を訪れました。しかし、夫にはそれが面白くなくて、自分だけ除け者にされているように感じていたようです。
長男が小学校に入学した年の夏のある日、夫がいたずらをした長男を叱りながら水道のホースで頭から水をかけているところに父が出くわし、「何てことをするんだ!」と夫に詰め寄りました。
私は咄嗟に父の前に立ちふさがりました。同時に子どもの頃から抱いていた父への不満もぶつけてしまいました。その日以来、毎日のように自宅を訪れていた両親と疎遠になってしまったのです。
ちょうどその頃、両親と同居しようと自宅を新築したばかりで、両親が使う部屋に家具を運び入れて、まさにこれから同居生活が始まろうとしていました。しかし、この一件でその話はなくなってしまいました。
両親と夫との板挟みになってしまった私は、心の救いを求めて教会を訪ねたり、新興宗教の集まりに参加したりしましたが、心に響くものはありませんでした。
夫の脱サラと、両親との和解
その頃、次男と三男がスイミングスクールに通っていて、私も送迎バスに一緒に乗ることがありました。バスには一人ひとりに宗教の冊子を手渡している女性がいて、私もいただきました。
それは『白鳩』誌で、表紙に書かれていた「あなたの心が変われば、世界が変わる」という一文に心を惹かれてページをめくってみると、明るく前向きになれる記事が載っていて、読み応えがありました。
その女性は生地寿子さんといって、彼女から何度か『白鳩』誌をいただくうちに、母親教室*1に誘われました。会場に着いて驚いたのは、教室のリーダーを務めていたのが、私の実家のすぐ向かいに暮らしていた南千寿さんだったことでした。
*1 母親のための生長の家の勉強会

生長の家の教えを伝えてくれた生地寿子さん(右)と(撮影/永谷正樹)
南さんから「できていないことを注意するのではなく、できたことを褒めるのよ」と、子どもを神の子と拝み、美点を褒めて伸ばす生長の家の教育法を教わりました。
母親教室だけでなく誌友会*2にも通ううちに、この教えは本物だと確信し、南さんの勧めで家族全員で聖使命会*3に入会しました。
*2 教えを学ぶつどい
*3 生長の家の運動に賛同して献資をする会
その後、夫は自動車ディーラーの仕事をやめて、弁当店を始めました。仕事が忙しく家族の時間が持てないことに悩んでいて、脱サラしたいと考えていたようです。親の姿から自営業の大変さは知っていたので、生長の家の教えに出合う前の私であれば、猛反対していたと思います。
でも、「人間は神の子で、無限力がある」と学んでいたので、夫の力になりたいと、弁当店を手伝うことにしました。当時、子どもたちはまだ小学生だったので、家事や子育て、店の仕事と毎日が大忙しでした。
その翌年、私は家族でスケート場へ行った際に転んで骨折してしまい、2週間ほど入院しました。ところが、それがきっかけとなって、疎遠になっていた両親との関係を修復することができたのです。「天地一切のものとの和解」を説く生長の家の教えを信仰していれば、自ずと調和するのだと実感しました。
人様のお役に立ちたい
平成12年11月のことでした。高校を卒業して整骨院でアルバイトをしていた長男は、夜間に整骨の専門学校に通っていましたが、アルバイト先から車で帰る途中で、事故を起こしたとの連絡が警察からありました。
その日は雨が降っていて、車がスリップしてガードレールに激突したというのです。病院へ駆けつけると、長男は集中治療室にいて意識はなく、顎と骨盤を骨折し、肺挫傷にもなっていました。
その3日後、谷口清超先生*4ご指導の生長の家講習会が和歌山でありました。生地さんに長男の事故を伝え、次男と三男を連れて講習会を受講しました。生地さんは「必ずよくなるから大丈夫よ」と、励ましてくれました。
*4 前生長の家総裁、平成20年昇天
講習会の帰りに病院へ立ち寄ると、長男の意識は戻っていました。私はほっと胸を撫で下ろし、生地さんに報告しました。すると、「白鳩会*5の皆さんと一緒に祈っていたのよ」とおっしゃいました。祈って下さった方の中には、まったく面識のない方もいて、感謝の気持ちで一杯になりました。
*5 生長の家の女性の組織
それまでの私は自分が幸せになるために信仰していましたが、長男の回復を祈って下さった方々のように人のお役に立つことをしようと、白鳩会に入会しました。
生長の家の伝道活動をする中で、毎月地元の道場で練成会*6が開催されていることを知り、初日に行われる浄心行に通うようになりました。
*6 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
浄心行では、心の中にある悪感情や悪想念を紙に書き出し、生長の家のお経『甘露の法雨』*7の読誦の中でその紙を焼却して心を浄めます。私は子どもの頃に抱いた父や母への思いなど、心の中でモヤモヤしていることを書き綴りました。
*7 現在品切れ中
コロナ禍で開催できなくなるまで通い続けているうちに、父や母に対する気持ちも次第に変わり、理屈抜きに無条件でありがたいと思えるようになりました。

整骨院を営む長男の明宏さんと(撮影/永谷正樹)
妹と協力して介護が必要になった両親のお世話をし、特に父は糖尿病を患っていたため、毎日インシュリンの注射を打ちに介護施設へ通いました。仕事や家事との両立は本当に大変でしたが、教えを支えに頑張ることができました。母は平成18年に77歳で、父は平成28年に91歳で亡くなりました。
交通事故で入院した長男は退院すると、猛勉強して専門学校の勉強の遅れを取り戻して無事に卒業しました。国家試験にも合格し、柔道整復師になる夢を叶えました。父の存命中に父の養子となって姓を継ぎ、平成21年に両親が営んでいたクリーニング店を改装して、整骨院を開きました。15年経った今、地元の方々が足繁く通って下さっています。

弁当店『おべんと村』で。「お客様との会話を楽しんでいます」(撮影/永谷正樹)
弁当店は開店して30年以上が経ちました。ここまで続けてこられたのも、常連のお客様のおかげだと感謝しています。
弁当店には生長の家の日めくり暦『ひかりの言葉』*8を掲げ、店のカウンターには手に取っていただけるように生長の家の本や月刊誌を置いています。「懐かしい。母が信仰していました」「この本、借りていいですか」など、お客様から声をかけていただくと、とても嬉しくなります。
*8 生長の家総裁・谷口雅宣監修、生長の家刊
これからもますます明るく人様のお役に立てるよう、元気ハツラツ、万事好都合で歩んでいきたいと思います。