義父が薬の副作用で聴力を失い、6年後に亡くなった翌日、
義母が脳溢血で半身不随となった。
義父母を介護する中で様々な葛藤があったが、自分の中の愛を引き出して、
「病無し、肉体無し」の信仰に導いてくれたと感謝できるようになった。

青木延子(あおき・のぶこ)
77歳・北海道留萌市

留萌市の黄金岬海浜公園で(撮影/加藤正道)

留萌市の黄金岬海浜公園で(撮影/加藤正道)

❇︎  ❇︎  ❇︎  ❇︎  ❇︎  ❇︎  ❇︎  ❇︎

 私が生長の家を知ったのは、小学6年生の時のことでした。父が知人に誘われて誌友会に参加した縁で母も教えに触れ、私も誌友会*1に連れていってもらうようになったのです。
*1 教えを学ぶつどい

 誌友会で聴いた「人間は完全円満な神の子」「夫婦調和が幸せの秘訣」といった話が印象に残り、中学生になってからは青少年見真会*2に参加して教えを学ぶようになりました。短大在学中に青年会*3に入会し、その傍ら教員免許を取得して、留萌管内にある小学校の教師になりました。
*2 教えを学ぶつどい
*3 12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織

夫の利夫さんと。「義父母の介護でつらいことがあっても、いつも私の話をじっと聞いて励ましてくれました」(撮影/加藤正道)

夫の利夫さんと。「義父母の介護でつらいことがあっても、いつも私の話をじっと聞いて励ましてくれました」(撮影/加藤正道)

 教師になって間もなく青年会で知り合ったのが、同じ町で高校教師をしている人でした。彼の祖父、青木應論(まさひろ)さんは、昭和7年に『生命の實相』*4が出版される際、書名が公募され、「生命の實相」という書名を応募して採用された人で、私はとてもご縁を感じて交際するようになりました。昭和44年に結婚し、3年間勤めた小学校を退職しました。
*4 生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。全40巻

 結婚する時に、夫から「両親と同居したい」と告げられ、私は喜んで賛成しました。親を思う優しい心がうれしかったのです。実家の母も、「お義父さん、お義母さんにいろいろ教えてもらいなさい」と喜んでくれました。ただ義母からは、「結婚してからが本物の生長の家ですよ」と言われ、とても厳しい言葉に思えました。

義父の思い出

 
 結婚生活は、私たち夫婦と義父母、義妹2人の6人家族で始まりました。やがて2人の娘に恵まれ、喜びもひとしおでしたが、家事一切を引き受けていた私は育児にも追われ、慌ただしい毎日になりました。

 義父と義母は性格の違いで、口論になることも度々でした。仲の良い実家の両親と比べて、「同じ生長の家を信仰しているのに、なぜ?」と怪訝でなりませんでした。

 そんな義父母ですが、時には心が和む一面もありました。お酒が好きな義父は、「表面張力が働くから、ギリギリまで注いでもこぼれないよ」と講釈しながら、晩酌するのが常でした。それを横目で見た義母が、苦笑しながらお酌することもあり、実は心は通い合っているのだと思えました。

siro176_taiken_4

 ところが義父は、昭和51年に腎不全で入院し、薬の副作用で両耳の聴覚を失ってしまいました。4カ月後に退院したものの会話は全て筆談になり、筆談の途中で少しでも複雑なやりとりになると、義父はストレスが溜まって不機嫌になることもありました。それでも納得すると、「そうか、分かった」と言ってくれる人でした。

 昭和54年に谷口雅春*5先生の札幌での最後の講習会があった時は、義父も参加したので、私は講話の内容を一言も漏らさないように筆談で必死に伝えました。全身で先生の講話を聴こうとする義父の姿に胸が熱くなりましたが、その3年後に義父は77歳で霊界へと旅立ちました。
*5 生長の家創始者、昭和60年昇天

今こそ生長の家を実践する時

 
 義父が亡くなった翌日、義母が脳溢血で倒れ、以来半身不随で寝たきりになってしまいました。義母には以前に患った脳溢血による後遺症もありましたが、義父の死で精神的に参っていたのだと思います。

 義母は札幌の病院に入院し、私は留萌から見舞いに通いました。「家に帰りたい」というのが義母の本音で、それがひしひしと伝わってきて私は悩みました。入院してからも、盆と正月の2回は帰宅するのですが、そのお世話だけでもくたくたなのに、毎日と思うと自信はありませんでした。

 ある日、聖経『甘露の法雨』*6を読誦していると、「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」という一節にハッとしました。そして、「今こそ結婚当初に義母から言われた、生長の家の教えを実践する時だ」と、目の前がパッと明るくなったのです。私は夫と2人の娘に、「家でお義母さんのお世話をしたい」と話すと、夫は目を真っ赤にして喜んでくれて、娘たちも賛成してくれました。こうして3年間の入院の後に義母は帰ってきました。
*6 生長の家のお経のひとつ。現在品切れ中

siro176_taiken_3

 右手が少し使える程度で自力では寝返りもできない状態でしたが、頭と言葉はしっかりしていました。私は歯磨きや入浴、おむつ交換と寝返りの介助などのお世話を懸命にしました。

 ところがある夜、義母から「ちょっと来て!」と呼ばれて部屋に行くと、「あなたは嫁の中で一番悪い嫁だよ」と言うのです。義母の説教を聞いて気づいたのは、勝ち気な義母は嫁の世話になるのが耐え難いということでした。

 義母の言葉を聞きながら私は複雑な思いでしたが、私の心にも「世話をしてあげている」といった傲りがあったことに気づき、思わず「お義母さん、ごめんなさい」と叫んでいました。涙がせきを切ったようにあふれると、義母は真顔になって「言い過ぎた。ごめんね」と言ってくれました。

そのままでありがたい

 
 それからは義母と気持ちが通い合って、食事や排泄の介助もスムーズにできるようになりました。私が「介護させていただく」という気持ちに変わったのが義母に伝わったからだと思います。義母は思い出話を何度も聞かせてくれるようになり、少し動く右手でベッドの上で書道の練習をしたり、夏の夜には家族で花火大会に出かけたりしました。

 しかし、義母は徐々に体力が弱り、ある時から食事はスープしか受け付けなくなりました。そして、家族と親族、主治医が見守る中、私は末期の水を義母の口に含ませました。その時、思わず「お義母さん、ありがとう!」と叫んでいました。義母は「さよなら」と口を動かしてくれたようでした。義父の他界から8年後の平成2年、82歳の義母の安らかな最期でした。

siro176_taiken_7

 義母が他界してから教えをもっと学びたいと思い、それまで毎月続けてきた誌友会に加えて生長の家の本の輪読会も開くことにしました。白鳩会*7のお役も受け、72歳まで地元の皆さんと楽しく伝道活動に努めました。
*7 生長の家の女性の組織

 ところが3年前、突然、腎臓病を患って人工透析を受けることになりました。教えを実践してきたのにと気が滅入りましたが、「信仰がまだ浅かった」と反省しました。それからは、生長の家の本や聖経*8を毎日しっかり読むようになりました。それを続けていたある日、「人間は神の子・完全円満。義父と義母は病を現わしながら、私の中の愛を引き出して、『人間・神の子、病本来無し、肉体無し』の本物の信仰に導いてくれた観世音菩薩*9だった」という思いがふつふつと湧いてきました。
*8 生長の家のお経の総称
*9 周囲の人々や自然の姿となって現れて、私たちに教えを説かれる菩薩

siro176_taiken_5

 今も透析は続いていますが、以前の私は信仰が深まれば病は癒えると思っていました。でも今は、「病があっても無くても、そのままでありがたい」という気持ちです。

 結婚して50数年、私がつらい時、いつも支えてくれた夫には感謝で一杯です。2人の娘たちはそれぞれの道を歩み、長女は泌尿器科の医師に嫁ぎ、次女は地元の中学校の教師となって、担任として、部活動の顧問として奮闘しています。週末に生徒に配る学級通信は私たち夫婦の楽しみの一つです。

 これからも亡き父母と義父母、ご先祖に感謝を捧げながら、縁ある皆様に幸福への橋渡しをしていきたいと思っています。