小学5年生の時にリンパ腫を患い、闘病生活の中で10代を過ごした。
完治後、結婚して子どもにも恵まれたが、思い通りに子育てできないことに悩むようになった。
それをきっかけに生長の家の教えを学ぶようになり、大病を乗り越えることができたのは、家族の愛のおかげだったことに気づいた。

『白鳩』No.152_体験手記_写真1

撮影/髙木あゆみ

岩﨑雅子
46歳・山口県防府市

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病とともに過ごした10代

 私がリンパ腫という血液の病気を発症したのは、小学5年生の時でした。岡山大学病院に入院することになりましたが、悪性度の低いリンパ腫だったのが救いでした。それでも治療に使われる強い薬の副作用に苦しみました。40度の熱が連日続き、頭髪は全て抜け落ち、寝たきりの状態で過ごしました。

 入院中は、母が同じ病室で寝泊まりしながら介助してくれました。生長の家を信仰している母は時々、病室の片隅にある簡易ベッドの上に正座して聖経(*1)を読んでいました。その頃の私には言葉の意味はよく分かりませんでしたが、私の回復を願って懸命に聖経を誦げる母の姿が心に強く残りました。

 5カ月間の入院の後、退院を許可されましたが、2週間おきに山口県の自宅から岡山まで通院し、さらに数カ月に一度、1週間の入院治療を受けました。中学生になってからも通院は続き、欠席日数も多かったのですが、授業を受けられることは楽しく、吹奏楽部の練習にも励みました。

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 その後、商業高校に進学したものの1年生の時に髄膜炎にかかり、その後遺症で下半身の神経が軽度に麻痺したままになりました。高校卒業後は専門学校に進みましたが、リンパ腫が再発してしまいました。しかし、この時は医療の進歩によって短期間で治すことができました。

 楽しいはずの10代を闘病に費やし、「なぜ自分はこんな辛い人生を送らなければいけないのだろう」と嘆くこともありました。それでも自暴自棄にならなかったのは、私の回復を信じて「大丈夫」と言葉をかけ続けてくれた母の温もりを常に感じていたからです。

毎日を明るい言葉で満たす

 再発したリンパ腫が治まった頃、医師から、向こう5年間に再発しなければ大丈夫であることや、治療による体へのリスクが大きいため、この先、生理は来ないだろうと言われました。まだ19歳だというのに、将来、子どもを持つことができないと宣告されてショックでしたが、不思議にも1年も経たないうちに生理が来ました。さらに5年が過ぎてもリンパ腫の再発はなかったので安堵しました。

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 眼科で受付事務の仕事をしていた平成15年、27歳の時に運送会社で働く主人と結婚しました。子どもを授かるのは難しいのではないかと考えていたのですが、結婚してすぐに妊娠し、翌年、無事に長女を出産することができました。

 せっかく授かった子だから立派に成長してほしいと願うものの、初めての子育てにとまどいました。子どもが親の思い通りに動いてくれないと叱ることが増え、そんな自分に自己嫌悪を感じるようになったのです。

 長女が生まれた翌年に二女を授かり、その子が1歳になった頃、一人の婦人が我が家を訪ねてきて、『白鳩』誌を手渡してくれました。その方は伝道のため近隣の家を回っていたそうで、私は久しぶりに生長の家のことを聞き、祖母と母が信仰していたことが思い出されて懐かしさを覚えました。この街にも信徒の方がいることに嬉しくなり、近所で開催している母親教室(*2)に通い始めました。

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 母親教室では、子どもは無限力を宿した神の子であることや、美点を見て明るい言葉で褒めること、そして言葉には環境を創り出す力があり、口に出す言葉だけでなく、表情や態度からも親の思いは子どもに伝わるということを教わり、子どもの悪い面を直すことが教育だと考えていた自分の過ちに気づかされました。

 目の前に現れている子どもの姿ではなく、神によって創られたままの完全円満なすがたである実相を見ることを心がけて、むやみに叱るのはやめようと決意した私でしたが、子どもの悪い面が気になると、つい衝動的に小言が出てしまい、いつまで経っても自分を変えられずにいました。

 そんなある時、講師の方から「○○ちゃんは素晴らしい神の子さんです。生まれてきてくれて有難う、大好きだよ」と『日時計日記』(生長の家白鳩会総裁・谷口純子監修、生長の家刊)に書き続けることを勧められ、早速実行することにしました。

 毎日を明るい言葉で満たすことを心がけ、『日時計日記』に家族の明るい面を毎日綴っていると、ネガティブ思考に陥りがちな心の持ち方が一転してポジティブになり、たとえ子どものマイナス面が見えてもそれに捉われなくなり、大らかな心で子どもに向き合えるようになりました。

三女、愛犬のてんと自宅前で

三女、愛犬のてんと自宅前で(撮影/髙木あゆみ )


家族の愛に胸を打たれる

 母親教室では天地一切の人や物に感謝することの大切さも学び、両親に意識して感謝したことはありませんでしたが、平成20年に父が67歳で亡くなったことが、家族の愛の深さに気づくきっかけになりました。

 父の葬儀の後、兄から聞いたのですが、私が最初にリンパ腫で入院した時、厳格だった父が「雅子が死ぬかもしれない」と言って涙を流していたというのです。入院中、私は高熱の中で意識不明になったことがあり、その時も父はとても心配していたそうです。

 父が涙する姿を見たことはなかったので、兄の言葉に感極まって胸が熱くなりました。さらに、当時高校生だった兄は大学受験を控えて大事な時期だというのに、私の無事を願って、登校前に神社でお百度参りをしてくれていたことも知りました。

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 家族に長い間心配をかけてきたにもかかわらず、自分のことにしか目が行かず、入院中に母を独り占めして姉や兄に不自由をかけてしまったことが思い出され、申し訳なくて涙が出ました。

 病気を乗り越え健康を取り戻すことができたのは、家族の愛に支えられてきたおかげだったという感謝の思いで私の心は一杯になりました。

 平成24年には三女にも恵まれ、私の『日時計日記』は主人と3人の娘たちへの明るい言葉で一層賑やかになりました。そのおかげで家庭は調和し、子どもも健康で伸び伸びと育っています。私は下半身に軽度の神経麻痺という後遺症があるものの、病の不安を覚えることもなくなりました。

三女が描いた絵

三女が描いた絵(撮影/髙木あゆみ )

 健康に自信が出てきたので、三女が生まれる2年前から介護施設で介護福祉士として働いています。職員の中には、同僚の陰口を言う方がたまにいるのですが、日々の喜びや明るい出来事などに心を向ける日時計主義を職場でも実行したいと思い、たとえマイナスの言葉に接したとしても、相手の良い面に目を向けてもらえるような言葉がけをしています。

 施設の利用者様の中には病気を抱えている方も多くいます。自分の長い闘病生活の経験から、そんな方々のつらい気持ちに寄り添うことができます。以前は自分の闘病期間は無駄な時間のように考えていましたが、周囲の人の心の痛みを理解できるようになれたことで、病気をしたことを否定的に考えることはなくなりました。

 コロナが流行する以前は、よく生長の家松陰練成道場(*3)に出向いて聖経を誦げていました。すると独り暮らしをしている高齢の母や、信仰熱心だった亡き祖母の顔が心に浮かび、深い愛情の中で育ててくれたことが有難くてよく涙したものです。その感謝の思いを胸に、介護の仕事や生長の家の伝道活動を通して、さらに愛深い自分へと成長したいと思っています。

*1 生長の家のお経の総称
*2 母親のための生長の家の勉強会
*3 全国各地にある生長の家の施設