女性問題が発覚して夫と離婚したが、夫が経営する家業の看板店は苦境に陥っており、借金は1億円に膨れ上がっていた。
看板店を引き継いだが経営は苦しく、「もう駄目かもしれない」と思った時、生長の家の教えに触れた。

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 昭和54年頃、父は自らが興した看板店を売却することを考えていました。後継ぎがいなかったため、景気の良いうちに手放そうと考えていたようです。その時、手を挙げたのがサラリーマンの夫でした。私は幼い頃から会社経営で苦労する父の姿を見てきたので反対しましたが、夫の意志は固く、押し切るような形で父の会社に入り、平成元年、40歳の時に二代目の社長になりました。

 会社経営を始めてから、夫は次第に家庭を顧みなくなりました。地元の商工会議所の役職も加わってさらに忙しくなり、私は次第に結婚生活に寂しさを感じるようになりました。

 当時はバブル真っ只中で会社は売り上げを伸ばし、夫は事業を拡大すべく金融機関から借り入れをし、ローンを組んで自宅も新築して、借金は1億円に達しました。しかしバブルが弾けると途端に経営は苦しくなり、借金を返済するために借金をする有様でした。私が「大丈夫?」と尋ねると、夫は「うるさい!」と怒鳴り、口を閉ざすようになりました。

 この頃、夫の女性問題が発覚しました。夫は「毎月の手当を30万払ってやるから別れてくれ」と言いましたが、私はどうしても別れる決心がつきませんでした。息子たちからは離婚を勧められ、次第に冷静に離婚へと心が決まり、24年間の結婚生活の幕を閉じました。

 夫は「会社を譲ってほしい」と言いました。しかし、父が一代で築いた会社を譲ることなど出来ない相談でした。「僕はサラリーマンに戻る」と言う夫に出来るだけのことはさせていただこうと、株の売却金や預貯金を渡しました。

 ところが離婚して3日後、知人から、夫が同業の会社を設立したという葉書が届いたと、驚くべきことを聞かされ、私はその場に座り込んでしまいました。「退職の挨拶状を送るから」という夫の言葉を信じて、顧客リストのコピーを渡していたのです。

 慌てて会社に戻り確認すると、見積書は表紙だけで中身が無く、資材の一部も無くなっていました。さらに、従業員数名も退職していました。私は初めて騙されたことに気づき、経営の基盤を失った会社を思うと、これからどうなっていくんだろうと不安でいっぱいでした。「あの男、絶対に許さん。いつか殺してやる」とまで思ってしまいました。

 長男が東京の大学を退学して帰ってきました。長男は「お母さんの性格なら自殺をする。絶対にそれだけはさせてはいけない」と、そんな思いで帰ってきたと後になって話してくれました。借金の形に自宅を売却し、親子3人、六畳二間で残った借金に追われる生活が始まりました。

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「ご主人に赦してもらいなさい」


 毎日、銀行や仕入先から借金返済などについて電話がかかってくるようになり、生きた心地がしませんでした。そんなある日、近所の知人からの電話に「私、もう無理かもしれん」と話しました。すると知人は、ちょうどその日から始まった生長の家岡山県教化部(*1)の練成会(*2)を勧めてくれました。

 私は少しの間だけでも借金返済の電話から逃れられるという思いだけで、練成会に参加しました。しかし、宗教なんかでは救われない、絶対に洗脳などされないと固く心を閉ざし、参加者の中で私だけ泣かず、笑わず、喋りませんでした。

 講話中は机にうつ伏して寝ていました。でも、その眠りがとても心地よいのです。まるで母のおなかの中にいるような心地でした。私はその心地よさを求めて、お金をかき集めては毎月練成会に参加するようになりました。

 その中で、地方講師(*3)の中尾厚子先生との出会いがありました。中尾先生は、「ご主人を赦して、感謝しなさい。そうしなければ息子たちが同じ道を辿るよ」と言いました。「それって脅迫ですよね」と、私は反発ばかりしていました。和解の神想観(*4)をするようにご指導いただきましたが、「私はあなたを愛しています」と唱えることはできず、「私はあなたを愛していました」と過去形で祈ることから始めました。

『白鳩』「体験手記」画像3

 そんなある日、何気なく開いた『光の泉』(*5)誌の中の文章に目が釘付けになりました。

「私の後ろには二つ足跡がある。一つは神様。一つは私。ある苦しい時、後ろを見たら足跡が一つしかない。神様にも見捨てられたのかと思ったら、そうではなく、神様は苦しむ私を抱きかかえて歩いて下さっていた。だから足跡が一つしかない」

 これは今の私だと思いました。涙が止まりませんでした。神様と一緒だったら、今の悲しみや苦しみから抜け出すことが出来るかもしれない、そう思えた私は一所懸命に教えを学ぶ決心をしました。

「人間は神の子である」「感謝は全てを癒やす」「心が変われば全てが変わる」といった教えを人生のバックボーンとして、日々、神想観を実修し、先祖供養、神祭りを行い、生長の家の本を手当たり次第読み、車の中では講話テープを流しました。まさに真理漬けの日々でした。そこまでしなければ、殺したいとまで思う元夫への思いを変えることは出来なかったのです。

 平成13年、長崎の生長の家総本山(*6)で開催された団体参拝練成会(*7)に参加した時のことです。その日は生長の家総裁・谷口清超(*8)先生(当時)のご講話があり、その後の質疑応答で悩みを相談する機会を得ました。

 当時、高校を卒業した次男も入社して兄弟で働いていましたので、別れた夫のことと、息子2人に借金を背負わせてしまっていることを打ち明けると、谷口清超先生は「素晴らしい息子さんたちだね」と褒めて下さり、続けて「ご主人に赦してもらいなさい」とおっしゃいました。それまで私が夫を赦さないといけないと思っていたので、耳を疑いました。でも、もっと教えを真剣に学び、そういう自分にならなければと決意を新たにしました。

 その団体参拝練成会では、夫への思いを変えるもう一つの出来事がありました。私は子宮と卵巣が癒着していて時々痛む持病があり、練成会中に痛みが出てしまったのです。脂汗を流して苦しむなか、神様から「今だ!」と言われたような気がして、すぐに中尾先生に指導を受けました。

「24年間の結婚生活を振り返りなさい」と言われ、「親孝行な2人の息子や生長の家の教えとの出合いは、ご主人の存在なしではあり得なかったでしょう。女性問題で苦しんだのは離婚するまでの2年間で、それまでの幸せな時にはご主人はずっとそばにいてくれたんじゃないの」と告げられました。そうだと気づいた時、不思議に痛みはなくなり、病気もそれきり消えてしまったのです。

『白鳩』「体験手記」画像4

夫は観世音菩薩だった


 そして平成15年夏、私は明け方に夫の夢を見ました。白い雲に二人仲良く並んで座り、脚をぶらぶらさせて、「誰が見ていなくても、君の頑張りは僕がちゃんと見ているよ。残業代につけておいたらいいよ」と、夫は今まで見たことのないような笑顔で私を見つめながら言いました。

 それまでは夫の顔なんて思い出したくもないと思っていましたが、その日、和解の神想観をすると、心の底から夫の存在がありがたいと思うことが出来ました。こんなに憎まれても、私に大切なことを教えてくれた観世音菩薩様(*9)だったと思うと涙が止まらず、夫の幸せを祈ることができました。

 やがて、建設業者などからの大口の取引先が増え、以前の顧客も次第に戻ってきて下さり、経営も安定しました。平成18年には長男が社長となり、現在は専務である次男と二人で力を合わせて会社を切り盛りしています。負債も完済してそれが信頼となり、銀行との関係も今では良好になっています。

 息子たちは岡山市や大阪府にも営業所を設立し、ホテルやスーパー、病院などのサイン工事を請け負って、順調に業績を伸ばしています。平成28年には社名を改め、昨年(2021)創業70年を迎えました。父が身一つではじめた看板店がここまで大きくなったのも、息子たちのおかげと感謝しています。

 父は4年前に亡くなりました。亡くなる日の朝、病院のベッドで眠る父に「お父ちゃん、今、私は幸せよ。ありがとう」と話しかけると、意識がないはずの父が声を上げて泣きました。父は安心したのか、その日の午後、静かに息を引き取りました。

 私は会社の役員は降り、地元の商工会議所などの活動を通じて、長年お世話になっている地域の人々のために働かせていただいています。いま改めて、私は一人ではなく、いつも神様がそばにいて助け船を出して下さったと実感しています。そんな神様の愛や、私を支えて下さった周囲の皆様の愛に感謝しています。

*1 生長の家の布教・伝道の拠点
*2 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*3 教えを居住地で伝えるボランティアの講師
*4 相手を赦し、愛し、感謝できるようになるために実修する神想観。神想観とは、生長の家独得の座禅的瞑想法
*5 かつて発行されていた生長の家の男性向け月刊誌
*6 長崎県西海市にある生長の家の施設。龍宮住吉本宮や練成道場などがある
*7 生長の家総本山に教区単位で参拝し、受ける練成会
*8 前生長の家総裁、平成20年昇天
*9 周囲の人々や自然の姿となって現れて、私たちに教えを説かれる菩薩