A 終戦の年、最も進歩的な憲法草案を発表した、7名の知識人を中心とするグループです。
前回は、GHQ(連合国総司令部)の憲法草案(1946年2月)に影響を与えた、日本の民間グループ「憲法研究会」について触れました。これは高野岩三郎(元東京大学教授)の提案により、鈴木安蔵(憲法学者)、岩淵辰雄(政治評論家)、室伏高信(評論家)、馬場恒吾(政治評論家)など7名の知識人を中心として、1945年10月に発足した集まりです。憲法研究会は同年12月にかけて討議を重ね、鈴木が最終案を作成し、12月26日に「憲法草案要綱」として発表しました。
日本で育まれた民主主義思想
この憲法草案が画期的だったのは、当時、政府の憲法問題調査委員会でも変更されなかった「天皇の統治権」を否定して、「国民主権」を明確に規定し、天皇を「国家的儀礼」を司るだけに限定した点です。これは現行憲法の「国民主権」「象徴天皇制」に繋がるものでした。GHQ草案作成の中心人物だったラウエルが、この草案を「民主的で賛成できる」と評価したことは前回述べた通りです。
憲法研究会で中心的役割を果たした鈴木は戦前、京都大学在学中にマルクス主義研究の活動に加わり、治安維持法違反で禁固2年の有罪判決を受けています。その後、天皇制国家日本の本質を解明しようと、憲法史研究に没頭するようになります。
その中で、大正デモクラシーを代表する思想家・吉野作造から直接指導を受け、明治初期に国会開設や憲法制定を政府に求めた自由民権運動の理論家、植木枝盛を見出します。鈴木は、自由民権運動発祥の地、高知で史料調査を行い、明治憲法以前の私擬憲法(民間による憲法草案)の一つ、「日本国国憲按」の起草者が、植木枝盛だったことを突き止めます。
同草案は「人民主権」に立脚し、平等権、自由権などの人権が徹底して保障されていました。つまり、明治初期に育まれた民主主義思想が、鈴木により間接的に、現行憲法へと受け継がれることになったのです。
参考文献 塩田純著『日本国憲法誕生 知られざる舞台裏』(NHK出版、2008年)