教師を目指して短大に進学したものの、学費を稼ぐためのアルバイトに追われ、徐々に精神的な余裕をなくしてしまった。それでも、物事の明るい面に心を向ける生長の家の「日時計主義」に励まされて卒業することができた。社会人になり、結婚してからもボランティア活動に参加し、地域の役などを積極的に引き受けるようになった。

『いのちの環』私のターニングポイント_163_写真1

白く輝く砂浜、青く透き通る海。ふる里、多良間の海を背に(撮影/髙木あゆみ)

伊良皆和枝(いらみな・かずえ)さん│68歳│沖縄県多良間村
取材/原口真吾(本誌)

余裕のない大学生活

 
 沖縄県の離島、多良間島で生まれ育った伊良皆和枝さんは、宮古島の高校に進学後、運動神経が良かったため、体育教師を志して沖縄本島の大学を受験した。

 しかし不合格となり、一浪して再挑戦したものの、またしても落ちてしまった。これ以上浪人して、両親に経済的な負担はかけられないと、愛知県にある短大に、推薦枠で入学した。

 寮に入り大学生活が始まったが、学費を稼ぐため、朝は新聞配達、授業後も、夕方から喫茶店でアルバイトと、息つく暇もないほどの毎日だった。疲れから、図書室で居眠りをしてしまうこともしばしばだった。

「それでも学費が足りなくて納期に遅れ、校内の掲示板に未納者として張り出されたこともありました。1年が過ぎる頃には、こんな生活を卒業まで続けられるんだろうかと、すっかり弱気になっていたんです。そんなとき、親しくなった先輩から手渡されたのが、生長の家の『青年の書』(生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊)でした」

『いのちの環』私のターニングポイント_163_写真4

日時計主義で気力を取り戻す

 
 小学生の頃、生長の家を信仰する祖母に連れられて、よく誌友会に参加していたことを思い出し、懐かしい気持ちで『青年の書』を開いた。そこには、常に物事の明るい面に心を向ける「日時計主義」の生き方が説かれていて、文章から光が差してくるように感じられ、夢中で読み耽った。
* 教えを学ぶつどい

「『夜明け前が一番暗いように、もうダメだと思っても、解決は目の前にきている。そしてその先に、魂の大きな成長と喜びがある』といった言葉に励まされて、卒業まで頑張ろうという気力が生まれました」

 近くで開催されていた誌友会にも参加して教えを学ぶようになり、心機一転したのも束の間、父親が肝臓病で入院したと聞き、慌てて郷里に戻った。短大を中退し、家族のサポートをしようかと両親に尋ねると、「ここで辞めてはいけない」と病身の父親から強い口調で諭された。

『いのちの環』私のターニングポイント_163_写真5

「両親に感謝の気持ちが湧き、その思いに応えようと決意して愛知に戻りました。2年間の学生生活を終えたときは、両親や短大の先輩、信徒仲間、入学資金を援助してくれた島のみんな、本当に多くの方々に支えられて卒業できたんだと思い、胸がいっぱいになりました」

 生長の家で学んだ「子どもに宿る神性を、言葉で褒めて引き出す教育」を実践しようと、希望を胸に多良間島へ帰り、小学校の臨時講師をしながら教員採用試験に臨んだ。しかし、4年経っても合格することができず、生活のために教師の道を断念し、村役場の職員となった。

「仕事の傍らボランティアとして、子どもに手芸や料理、書道を教えたりして、生長の家の教育法を実践することができました。今でも教師になりたかったという心残りはありますが、別のご縁、別の働きを通して、人のお役に立つ喜びを味わい、これこそ神さまから与えられた使命だと思うことができました」

『いのちの環』私のターニングポイント_163_写真2

自宅の居間で。「人のお役に立ちたい、社会を少しでも良いものにしていきたい、そういった思いがいつも胸の中にあります」(撮影/髙木あゆみ)

人の役に立つ喜びを味わって

 
 25歳のときに、同じ島出身の男性と結婚し、長年共働きを続けていたが、10年前に夫が村長に当選したのを機に専業主婦となった。それからは毎朝、握手をして夫を役場に送り出している。

「お酒が好きな夫は、家に人を呼び、夜遅くまで飲むことがあります。そんな次の日の朝、不満に思った私が握手しなかったりすると、夫は玄関でずっと待っているんです。それで仕方なく握手するんですが、握手すると、とても気持ちが温かくなって、夫も私も自然と笑顔になり、いつの間にか仲直りしてしまうんですね。夫婦円満なのは、毎朝の握手のおかげだと思っています」

 専業主婦になって時間に余裕ができた伊良皆さんは、婦人会や海岸の清掃、花壇の管理など、地域のお役を積極的に引き受けた。そして「たらま花保存会」では、紅花に月桃(げっとう)やノニの葉など、9種類の植物を組み合わせた無農薬ハーブティーの商品開発にも携わった。

『いのちの環』私のターニングポイント_163_写真3

「たらま花保存会」のメンバーと。この日はノニの葉の選別をした(撮影/髙木あゆみ)

「紅花は、かつて多良間島から琉球王朝に納めていたもので、『多良間花』と呼ばれていました。ですが、そんな地域に根ざした花も、育てる人が少なくなってきたので、紅花が咲く昔ながらの風景を守っていきたいと強く思ったんです。お茶に使う紅花は各家庭で育ててもらい、保存会で買い取るようにもしました。村の人には新しい収入源ができ、紅花も増えて、みんなに喜ばれています」

 最近は、地球温暖化が島の自然に与える影響を考え、人だけでなく、自然保護に役立つ活動に力を入れていきたいと思うようになった。

「人間の都合だけを考えて経済発展を続けてきたせいで、環境破壊が進みました。このまま温暖化が進めば、子どもや孫たちがどんな生活を送ることになるか分かりません。人間も自然の一部という、自然に対しても自他一体の意識を持つことが大切だと生長の家で学んでいますので、未来のために、島の美しい自然を守っていきたいと思っています」