消防署の上司に怒鳴られる毎日
私は1浪して大学に入ったのですが、卒業するときは、バブル崩壊に伴う就職氷河期で、なかなか仕事が見つからず、就職浪人という道を選ばざるを得ませんでした。
そして24歳になったとき、消防士になりました。日頃から「人のお役に立つ仕事をしたい」という思いを強く持っていたため、この仕事を選んだのです。
同期として3人が採用されましたが、それぞれ別の消防署に配属され、私が配属された署は、20代は私と1歳上の先輩の2人で、あとは30代が1人、他は40代以上という人たちで構成されていました。
私の直接の上司は署長のすぐ下で、現場での地位は一番上でしたが、この上司はことあるごとに大声で頭ごなしに叱りつけてくる人でした。
飄々として上手く立ち回る1つ上の先輩はそれほど怒られず、怒られても気にする様子がありませんでしたが、彼ほど器用ではない私は、怒られるたびに落ち込んでしまう毎日でした。
まずいことに、その先輩は半年後に他の署に異動してしまったため、20代は私だけとなり、ますます風当たりが強くなりました。
仕事上で分からないことがあったときなどに、意を決して上司に聞きに行くと、決まって「そんなことも分からないのか。自分で考えろ!」と大声で怒鳴られ、人格を否定するようなことまで言われることがありました。
職場で一番年が若い私は、上司にとって怒りやすい存在だったようで、とにかく毎日のように怒声を浴びせられるのです。
先輩たちが時々陰で慰めてくれましたが、上司を敵に回したら職場に居づらくなると感じていたのか、表立って取りなしたり、庇ったりしてくれることはありませんでした。
2年目に入ったとき、新人が1人配属されてきたものの、上司の怒りの対象が後輩に移ることはなく、相変わらず私が怒られ役で、今度は「お前、後輩にちゃんと仕事を教えてるのか!」と言われる始末でした。
ますます落ち込むことが増えるうちに、「怒られるのはきちんと仕事ができないからだ」と自分を責め、鬱々として毎日を過ごすようになりました。
うつ病で退職に追い込まれる
消防署の仕事は、一度出勤すると24時間勤務で、翌日朝まで署で上司らとともに待機することになるため、逃げ場がなくなって、本当に辛い毎日でした。家に帰っても気分転換できず、次第に職場を“恐怖の場所”と感じるようになっていきました。
そうするうちに、出勤日の朝になっても寝床から出られず、休むことが増えるようになりました。あまりのことに病院に行くと「うつ病」と診断され、精神科に回されました。
薬を処方され、医師からは「回復するまで正式に休職してはどうか」と勧められましたが、休職して治ったとしても、とうてい快く迎えてもらえるとは思えなかったため、踏み切れないでいました。
そんなあるとき、同僚に「もう退職するしかないかなと思っている」と胸の内を話したところ、それがすぐ人事の担当者に伝わり、担当者がわが家に押しかけてきて、「この場で退職願を書け」と迫られました。
理不尽だとは思いながらも、高圧的な態度に押し切られ、消防士を辞めることになりました。
それからすぐ精神科に入院し、少し回復して退院した後、郵便局でアルバイトとして働くようになりました。受取人不在で配達できなかった書留郵便などを、夜になってから改めて配達するという仕事でした。
自分の性に合っていましたが、5年ほど続けるうちに、アルバイトだけでは収入が少ないため、新聞配達と掛け持ちで仕事をするようになりました。ところがこれが災いして睡眠不足が常態化し、うつ病が再発してしまったのです。
母親から生長の家を勧められて
それから入退院を繰り返し、退院しては新しいアルバイトに挑戦するのですが、長続きせず、10年ほど引きこもり生活を送るようになってしまいました。
パチンコ屋に入り浸って時間を潰していたものの、そのうちお金が底を突いて母にお金をせびるようになり、母との仲に亀裂が入ってしまいました。
パチンコができなくなってからは、家に閉じこもってオンラインゲームに熱中するようになりました。「わざわざ外に行かなくても済むし、パチンコよりもいいや」などと思っていたのです。
この頃、私の自堕落な生活ぶりを見かねた母親が、しきりに生長の家の教えを学びなさいと言ってくるようになりました。
高校、大学時代に、母に勧められて何度か地元の教化部*1や、生長の家宇治別格本山*2の練成会*3に参加したこともあり、「人間は神の子で、本来完全円満な存在である」とか「この世界は心がつくるものであり、人生は心の持ち方次第で思いのままに切り開いていける」といった話も聴いていたはずです。
*1 生長の家の布教・伝道の拠点
*2 京都府宇治市にある生長の家の施設。宝蔵神社や練成道場などがある
*3 合宿して教えを学び、実践するつどい
しかしその頃は、行事や講話などのすべてが嫌で苦行にしか思えず、心に残ることは何一つありませんでした。
その後、今から7年前のことですが、心の溝が深まった母から距離を置くため、近くの団地で一人暮らしを始めました。母との軋轢から少し解放されたためか、母から生長の家を勧められても前ほど嫌ではなくなり、少し前向きな気持ちが出てきたのです。
「自分は、これでいいんだ!」
そんな一昨年の3月、生長の家の地元教区の相愛会の方に声をかけていただき、教化部の敷地内にある花壇や周囲の環境を整備する活動に参加するようになりました。
初めのうちは、「自分のようなどうしようもない人間が、ちゃんと迎え入れてもらえるのだろうか」と心配していましたが、思い切って参加してみると、相愛会*4の方たちは私をとても明るく迎えてくれ、人の親切が身に染みました。
*4 生長の家の男性の組織
それまでは、生活に困ったときに役所の福祉担当の人によく相談していたのですが、すごく丁寧に接してくれました。
そうされると逆に、自分は普通じゃない人間だから哀れんで親切にしてくれているんだと思い、負担に感じてしまっていたのです。
しかし、相愛会の皆さんは私をまったく特別扱いせず、「よく来たね」と気軽に受け入れてくれたのです。普通に扱ってもらったことに感動し、「自分はこれでいいんだ!」と思うことができました。
環境を整備する活動では、ああしろ、こうしろと言われることもなく、皆さんが「肩の力を抜いてやればいいんだよ」などと優しく言ってくれるので、安心して取り組めました。
そうした経験を通して、「ああ、自分もあの人たちのように人に優しくできるような人になりたい。そのためにも、これからは生長の家の行事や練成会に参加してきちんと教えを学んでみよう」という気持ちになりました。
一昨年秋に開かれた相愛会の行事では、体験発表の機会を与えていただき、思い切って話をすると、これまでの胸のつかえがとれたような感じがしました。発表後も皆さんに励ましていただいたおかげで、人前に出ることも平気になってきました。
今思うと、相愛会の皆さんは、私を神の子として拝んでくださっていたんだということがよく分かります。
そんな皆さんにご恩返しするために、これからも教えを学び続けて「神の子としての無限力を発揮し、近いうちに社会復帰して、これまで心配をかけてきた母に親孝行をしたい」と思っています。