祖母に辛く当たられ、人間不信になって

 
 子どもの頃、両親が共働きだったので、同居していた祖母が私たちきょうだいの面倒を見てくれていました。ですが、祖母は弟や妹に対しては優しいおばあちゃんなのに、私にだけは風当たりが強く、いつも何かにつけて小言を言ってきました。

 私の父は祖母の長男であり、祖母は息子を嫁に取られてしまったと感じたようで、その不満を同じ長男である孫の私にぶつけていたらしいことを後になって知りました。もちろん、子どもの私にそんな事情が分かるはずもなく、祖母への不信感は、やがて人間への不信感となっていきました。誰に対しても無意識に壁を作るようになってしまったのです。

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 中学生になると、クラスメートの輪に入っていくことができない私を見かねた担任の教師が、本を読んで視野を広げるよう勧めてくれました。お陰で読書が趣味になり、社会人になってから、生長の家の教えに触れるきっかけにもなりました。

 将来の進路については、これといった希望を持っていなかったため、担任に勧められるまま工業高校の電子科に進学し、卒業後はコンデンサーを扱う電子部品の会社に就職しました。ところが、数年もしないうちに経営が悪化し、人員を削減せざるを得なくなったのです。

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 上司は「入社して間もないのだから、心配しなくて良い」と言ってくれたのですが、私は希望退職に応じることにしました。自分が社会でどれだけ通用するか試してみたいという思いは持っていたものの、実際のところは同僚や会社の雰囲気に馴染みきれず、「今の人間関係から逃げたい」という気持ちの方が強かったからです。

 退職後は、職種を選ぶことなく運送業や菓子屋などさまざまな仕事を転々としました。自分は社会で通用するという自信はつきましたが、どこにいても長続きせず、将来を見通せない不安が徐々に大きくなっていきました。それは時として、いっそ死んで楽になってしまいたいと思うほどのものでした。

「普通の人になりたい」

 
 そんなある日、たまたま立ち寄った書店で、『放送人生読本』*1(生長の家創始者・谷口雅春*2著、日本教文社刊)という本が目に留まりました。手にとって読んでみると、「現象は仮の姿であり、神が創られた完全円満な世界が本当の姿である」といった言葉が書かれていて衝撃を受けました。
*1 現在、品切れ中
*2 昭和60年昇天

 この本の著者に相談に乗ってもらえたら、私の人生も変わるに違いないと直感し、発行元である日本教文社に問い合わせると、谷口雅春師は、長崎県にある生長の家総本山*3にいることが分かったため、その足で空港に向かい、生長の家総本山を訪ねました。
*3 長崎県西海市にある生長の家の施設。龍宮住吉本宮や練成道場などがある

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 残念ながら、谷口雅春師にお会いすることはできなかったのですが、職員の方から各都道府県にある生長の家の教化部*4で、教えを学ぶ練成会*5という集まりが開かれていると聞き、地元教区の練成会に参加してみようと思い直して帰りました。
*4 生長の家の布教・伝道の拠点
*5 合宿して教えを学び、実践するつどい

 教えのことはよく分からないままに練成会に参加しました。しかし、常に「ありがとうございます」という言葉が飛び交う会場は、雰囲気がとても良く、心が癒やされました。「人間は神の子で無限の力を持っている」といった教えも心に響き、その後も教区の練成会だけでなく、全国各地の本部直轄練成道場*6の練成会にも参加するようになり、研修生にもなりました。
*6 全国各地にある生長の家の施設

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 研修生として、境内地の清掃や練成会の参加者のお世話などをさせていただいていると、自分の存在に価値があるように思えて、心が明るくなりました。しかし、研修生を終えていざ社会に戻ると、再び自分の価値が見出せなくなって研修生に戻るということを繰り返しました。

「環境は心の影だから、境遇や運命を変えるには、まず自分が変わらなければならない」と頭では分かっているものの、実際にどうすれば良いのか答えは出ないままでした。相変わらず周囲の人と上手く馴染むことができない状態で、いつも「自分は普通ではないから、なんとか普通になりたい」という願望を心の中に抱いて生きていました。

祖母への思いが変わった瞬間

 
 答えが見つからないまま、気づくと30代になっていました。それでも練成会に参加し、何度も研修生となって教えを学び続けたのは、「片栗粉への、最後の水の一滴」の教えがあったからでした。

 片栗粉を水で溶く時、少しずつ水を足していくと、ある瞬間、それまで白く濁っていたものが透明に変わります。同じように信仰でも、学び続けていれば心の迷いが一瞬にして消えて、この現象世界に神の子としての本来の姿が表現されてくる、そんな“最後の一滴”がやってくると信じていたのです。

 私にとってのその瞬間が訪れたのは、研修生として一般家庭を訪問し、伝道活動をしていた時でした。その訪問先では、年配の女性の方が応対してくれ、あれこれ話をしているうちに、「この人は亡くなった祖母と同じくらいの年齢かもしれない」と、不意に祖母のことを思い出したのです。

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「祖母から辛く当たられたことがきっかけで人生に悩むことになったけれども、もし、それがなかったら生長の家の教えには触れていなかったに違いない。真剣に教えを学ぶことができるようになったのは祖母のお陰かもしれない」という思いが頭をよぎりました。その時、ふと「祖母は、あのような姿になって私を信仰に導いてくれた観世音菩薩*7だったのだ」と思えて、伝道活動後に部屋に戻ってから、涙が溢れて止まらなくなりました。
*7 周囲の人々の姿となって私たちに教えを説かれる菩薩

 それから間もなく、現在の妻と出会いました。道場では就寝前にお祈りの館内放送が流れるのですが、ある女性職員の放送を聞いたとき、心に響く美しい声だと感じ、後日、思い切って声をかけたことがきっかけで結婚することができたのです。

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明るさが明るさを呼ぶ

 
 祖母が観世音菩薩だったと思えてから人生観が一変した私は、研修生を卒業して社会に戻り、精密プレス加工の会社で働くようになりました。

 それからというもの、考え方が違う人に対して苦手意識があった以前とは違い、人間関係は歯車のように、相手が逆の方向に動いてくれるから前に行くことができるのだと、よい方に考えられるようになりました。さらには、そういう人に対しても、自分の足りない点を気づかせてくれているのだと感謝することができるようになったのです。

 私には20歳になる一人娘がいますが、中学生の時にイジメに遭ったため、現在も心の傷が癒えないままで通院と治療を続けています。

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 私も転職を繰り返し、死にたいとまで思ったりして、両親にさんざん心配をかけてきました。今度は私が子どもの気持ちに寄り添う番だと思い、娘には、かつての私に語りかけるように「大丈夫だよ。いつでも味方だからね」と話し、笑顔で接するように努めています。娘は神の子なのだから、時間はかかっても必ずその実相*8が現れて来ると、信じて祈る日々です。
*8 神が創られたままの完全円満なすがた

 自分の価値はどこにあるのかとずっと悩んできた私ですが、今は「“類は類を呼ぶ”という心の法則によって、明るい心は明るい出来事を招く」という教えを知ることで、「明るい念波は世界を巡り、私が明るい気分でいるだけで誰かの役に立っているのだ」と感じられるようになりました。

 これまでの恩返しとして、神社の清掃や募金、献血など役に立てることは何でもさせていただきながら、どんなときも明るさを失わず、笑顔で生きていきます。