車で人を跳ねてしまう

 
 私の運命を変えたのは、平成4年10月、自分の不注意で起こした交通事故でした。

 当時の私は、家庭用品の卸売会社に勤務して4年目を迎え、得意先への商品の配送と営業を主な仕事にしていました。しかしいつの間にか、毎日のそうした仕事に慣れてしまって退屈に思うようになり、上司に反発したりすることも多くなっていたのです。

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 その日も、数日前に上司から些細なことで注意を受けて苛立ちを覚え、それがまだ心に引っ掛かっていました。さらに当日は、配送先が遠かったため、「早く行かなければ」という焦りもあり、スピードを上げて車を走らせていたとき、60歳くらいの女性が横断歩道を横切るのが見えました。あわてて急ブレーキをかけたものの間に合わず、女性を跳ねてしまったのです。

「しまった!」と思い、慌てて車を降りて駆け寄ると、女性は車の横に倒れて苦しそうに呻いていました。パニックになって何をどうしていいか分からなくなり、茫然と立ち尽くしていると、事故に気づいた通行人が救急車を呼んでくれました。

 女性は病院に緊急搬送され、私も後を追って病院に行きました。いてもたってもいられない気持ちで待っていると、診察した医師から「命に別状はありませんが、両足の骨を折る重傷です」と聞かされ、少し安心したものの申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

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 両親に話すと、自分のことのように心配し、特に生長の家を信仰していた父は、事故の後、生長の家の講演会に誘ってくれました。一緒に参加したものの、子どもの頃からあまり関心がなかった私の心は、話を聴いても変わりませんでした。

 それでも私は、時間を見つけては、入院している女性のお見舞いに出かけて心からお詫びしました。すると誠意が通じたのか、最初はこわばった態度だった女性も、だんだん表情が柔らかくなって打ち解けてきました。

 女性は3回の手術を経て、半年後には松葉杖なしでも歩けるようになり、その頃には昵懇の間柄になることができました。また、会社の車を使っていたときの事故だったので保険金も全額下り、1カ月間の免許停止で済みました。

 しかし、その時期が来ていなかったのか、信仰に目覚めるまでには至らなかったのです。

強制的な父親に反発して

 
 父は小学生の頃、小児結核で入院し、どうにか回復したものの、ずっと再発の恐れを抱いて生きていたという人でした。そして昭和18年に下宿していた叔父の家で、当時発行されていた『行(ぎょう)』という生長の家の雑誌を読んだのがきっかけで生長の家の教えに触れたのです。

 明るく前向きな言葉が書かれていることに惹かれ、『生命の實相』(生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。全40巻)を購入して読み始めると、そこに書かれていた「人間は、本来完全円満な神の子である」という教えに感動し、長年、心にくすぶっていた結核再発の恐れが、すっかり吹き飛んでしまったそうです。

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 それ以来、熱心な信徒となった父は、戦後、聾唖(ろうあ)学校の教員となり、同僚だった母と結婚し、姉と兄、そして私が誕生しました。やがて母も信仰するようになり、自宅で近所の人を集めて誌友会*1を開くまでになったのです。
*1 教えを学ぶつどい

 そんな父の願いは子どもたちが、生長の家を信仰して幸福な人生を実現してほしいというものでした。そのため、私たちきょうだいは幼い頃から教えの話を聴かされて育ち、姉と兄は素直に受け入れて、高校生の頃には生高連*2のメンバーにまでなりました。
*2 生長の家の高校生のグループ。「生長の家高校生連盟」の略。昭和35年発足

 しかし私は、半ば強制的だった父の態度に反発していました。それでも父はあきらめず、小学低学年の頃は、父と一緒に早朝神想観*3に行くと、帰りに菓子パンを買ってもらえたりしました。
*3 生長の家独得の座禅的瞑想法

 中学生になると、神想観を最後まで実修すると100円、途中まででも50円もらえたので、それにつられて眠いのを我慢してよく行ったのを覚えています。

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 兄と一緒に青少年練成会*4にも参加したこともありましたが、それは両親から「行ってきなさい」と強く言われたから仕方なくでした。そんなこともあってすっかり嫌になってしまい、生長の家から離れてしまっていたのです。
*4 合宿して教えを学び、実践するつどい

 昭和59年に、私は地元のキリスト教系の高校に進学しましたが、独特の宗教的な雰囲気になじめず、わずか2カ月で退学してしまいました。そして翌年の4月に県立高校の定時制に入り、電気店や寿司屋で働き、平成元年に卒業して就職したのが、家庭用品の卸売会社でした。

神想観は人生のハッピータイム

 
 事故の後、父と生長の家の講演会に参加しても心に響くものを感じなかった私ですが、なんとか私を信仰に振り向かせようとする父の愛情を、感じるようになっていました。

 そんな平成8年、顔見知りだった生長の家青年会*5の人から、青年会教区大会に誘われ、この時はなぜか「行ってみよう」という気になって参加しました。
*5 12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織

 その大会で、ある講師から聴いた「神想観は本当の自分と正面から向き合う、ハッピータイムなんですよ」という言葉が深く心に残りました。神想観というと、父から言われて嫌々やっていたという記憶しかありませんでしたが、その言葉にハッと胸を打たれ、「本当の自分と向き合う神想観をやってみたい」と思ったのです。

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 その後、生長の家の講習会に参加すると谷口雅宣先生が、神想観の実修法をご指導くださったため、これなら自分でもできると思い、『基本的神想観』のカセットテープ(世界聖典普及協会発行)を購入し、見よう見まねで実修するようになりました。すると、しだいに神様が身近に感じられるようになり、心が落ち着いてなんとも穏やかな気持ちになることができました。

 そして、父がお菓子やお金を渡してまで私に神想観をさせようとしたのは、そうしたハッピータイムを私に味わわせたかったからなんだと気づいたのです。それから私は、父にならって神想観を日課にしようと決意し、平成9年の元旦から今に至るまで、毎日続けています。

今は亡き父親に感謝する日々

 
 その間には、さまざまなことがありました。38歳のときに家庭用品の卸売会社が倒産し、クリーニング会社、自動車の電装関係の会社、障害者施設の介護の仕事などを転々としました。自動車電装関係の会社を退職したときには、心機一転したいとの思いから生長の家総本山*6の一般練成会と献労練成会に参加しました。
*6 長崎県西海市にある生長の家の施設。龍宮住吉本宮や練成道場などがある

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 そこで学んだのは、会社で嫌なことがあっても、それを赦すことが大切だということでした。浄心行*7では、いろいろなことを悪く捉える癖がついて、心のレンズが曇っていたことを反省しました。
*7 過去に抱いた悪感情や悪想念を紙に書き、生長の家のお経『甘露の法雨』の読誦の中でその紙を焼却し、心を浄める行

 そして帰宅後、周囲の人たちへの感謝の思いを深めていくうちに、5年ほど前に自動車の解体工場の仕事に出合いました。まだ使える部品を仕分けして再生するというのが主な仕事で、物を大切にする素晴らしい職を与えられたと喜んでいます。

 これまでの半生を振り返ると、交通事故や失職などいろいろな苦難がありました。しかし、それを乗り越えられたのは、父が諦めることなく粘り強く私を信仰に導いてくれたおかげだと、亡き父に心から感謝しています。

 今は聖経*8や讃歌*9を読誦して、今までふれあった方々を祝福し、信仰を深める日々です。
*8 生長の家のお経の総称
*9 『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』(共に生長の家総裁・谷口雅宣著、生長の家刊)のこと