イラスト/ろぎふじえ

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 前号では、日本国憲法の成立過程において、自由民権運動と憲法の研究者であった鈴木安蔵(やすぞう)を中心とする憲法研究会の憲法草案にGHQが注目し、その結果、日本国憲法のなかに日本の民主主義思想が採用されたことを紹介しました。しかし、日本国憲法の成立に影響を与えたのは、自由民権運動だけではありません。大正デモクラシーもその成立に影響を与えています。

 大正デモクラシーとは、日露戦争が終わった1905年から約20年にわたり、日本の政治や社会・文化の各方面に現れた民主主義的な運動のことです(*1)。明治憲法体制に対抗する政治的自由を獲得することが、その目的でした(*2)。具体的には、普通選挙や男女平等、自由教育といった民主的制度が求められ、その結果、普通選挙法の制定(1925年)や、議会で多数を占める政党が内閣を組織して政治を行う政党政治などが実現しました。

 この大正デモクラシーを理論的に導いたのが、政治学者の吉野作造でした。吉野は、明治憲法で規定された天皇主権を前提としながらも、政治は民衆の利益や幸福を目的とし、世論を尊重すべきだという「民本主義」を唱え、普通選挙制や政党内閣制の実現の立役者となりました(*3)。

 GHQ草案に影響を与えた鈴木安蔵は、晩年の吉野と面会し、憲法史の研究に関するアドバイスを受けています。そして後年、この面会がのちの自分の研究に計り知れない影響を及ぼしたと回想しています(*4)。吉野の研究姿勢と方法が、鈴木の自由で豊かな視点を養うこととなったのです(*5)。大正デモクラシーを主導した吉野の影響がなければ、鈴木が起草(きそう)した憲法研究会の草案がGHQから「自由主義的(*6)」だと高く評価され、その多くの項目が日本国憲法に採用されることはなかったでしょう(*7)。

 ところで、日本の敗戦・占領を規定したポツダム宣言の第10項には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙(しょうがい)ヲ除去スベシ」とあります。これは、ポツダム宣言の起草者が日本に民主主義の流れがあったことを知っていて、その民主主義を「復活」し「強化」することが占領政策の要(かなめ)だと考えていたことを示しています。ポツダム宣言にこうした項目が盛り込まれた経緯については明確ではありませんが、アメリカ陸軍長官のスティムソンが深く関わっていたと考えられています(*8)。

 スティムソンは、1930年に開かれたロンドン海軍軍縮会議で、アメリカの全権代表を務めました。この会議はイギリス、アメリカ、日本の艦船の保有量の比率を決めるのが目的で、日本は協調外交と緊縮財政の政策の下、軍部や右翼の反対を押し切り、軍縮を進めようとしていました。この会議で日本の全権代表を務めたのが、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)でした。

 軍縮の実現を心から願う若槻は、会議の決裂を願う日本国内の気運に対し、「自分の生命と名誉を犠牲にして顧みないという覚悟(*9)」をもって会議に臨(のぞ)んでいました。これを知ったスティムソンは若槻の勇気ある姿勢に理解を示し、その結果、会議は日本に譲歩(じょうほ)する形で決着したのです。

 このとき、スティムソンの眼には、若槻と、同じ覚悟で彼を送り出した首相の浜口雄幸(おさち)、外相の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)らは「国内の偏狭で強硬な軍事主義者と対峙し、国際的視野のなかで日本の健全な発展を計る文民政治家(*10)」と映りました。そして、彼ら「大正デモクラシー時代の最後を飾る政党指導者(*11)」を通して、スティムソンは、日本にも民主主義の傾向があることを知ったのです。

 こうして、日本国憲法の成立には、大正デモクラシーの精神が影響を与えたのでした。(生長の家国際本部 国際運動部講師教育課)

*1=松尾尊兊著『大正デモクラシー』(岩波現代文庫、2001年)、ⅴ頁
*2=「大正デモクラシー」(日本大百科全書)https://kotobank.jp/word/大正デモクラシー-91352(2018年5月25日アクセス)
*3=「吉野作造」(日本大百科全書)https://kotobank.jp/word/吉野作造-146205(2018年5月25日アクセス)
*4=原秀成著『日本国憲法制定の系譜Ⅰ─戦争終結まで』(日本評論社、2004年)、94頁
*5=前掲書、102頁
*6=古関彰一著『日本国憲法の誕生』(岩波書店、2015年)、100頁
*7=辻村みよ子著『比較のなかの改憲論』(岩波新書、2014年)、80頁
*8=五百旗頭真著『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫、2005年)、121〜143頁
*9=前掲書、139頁
*10=前掲書、141頁
*11=前掲書、142頁