A 戦勝国の中に、天皇の戦争責任を問う声があり、天皇制存続が危うくなると考えたからです。

 前回の本欄では、1946年2月1日に新聞でスクープされた日本政府の憲法改正試案の保守性に危機感をもった連合国総司令部(GHQ)が、憲法草案作成へと動きだした経緯に触れました。しかも、その期限を1週間とするほど急いだ要因は、極東委員会(米、英、ソ連など11カ国で構成された日本の占領政策の最高決定機関)の第1回会議が、2月26日にワシントンで開催される予定だったからです。

 太平洋戦争の勃発(ぼっぱつ)直後から、専門家を結集して日本研究を始めていたアメリカは、すでに1942年の時点で、戦争終結後には、天皇制を軍国主義から切り離した上で存続させるという対日構想を練(ね)っていました。しかし、極東委員会のメンバーの中には天皇の戦争責任を問う声があり、ソ連やオーストラリアなどは、天皇を戦犯として告発すべきと主張していました。

イラスト/石橋富士子

イラスト/石橋富士子

 1945年9月27日の昭和天皇との会談で、天皇の戦争責任を問うべきではないと確信し、「天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員が必要となるだろう」と本国に報告していた連合国最高司令官マッカーサーには、極東委員会が介入する前に、憲法改正に着手しておきたいという思惑(おもわく)がありました。GHQの草案作成における原則としてマッカーサーが指示した「象徴天皇制」と「戦争放棄」は、天皇制存続を極東委員会に認めさせるためにも、欠かせない条件だったのです。

「密室の1週間」

 2月4日から始まったGHQ民政局での憲法草案作成は、民政局次長のケーディス大佐を中心に、ハッシー中佐、ラウエル中佐の3人の弁護士で構成された運営委員会の統括(とうかつ)の下、立法、司法、行政、人権、地方行政、財政、天皇・条約・授権規定、前文の8つの委員会に分かれて行われました。そして、2月10日に仮案(かりあん)がマッカーサーへと提出されます。この草案作成は秘密裏(ひみつり)に進められたため、密室の1週間とも呼ばれています。