人間はこの世で肉体生活を終ったら全てが終るものではない。
生命は永遠であり、その永遠の生命はどこかで生きている。
そう考えるのが当然だ。すると、生きている生命には心があるから、
その心にこちらの心も感応する。愛念を送ればその愛念は通ずるし、
「あいたい」と思えばその思いも通ずるはずである。
(谷口清超著『善意の世界』78ページ、日本教文社刊)

 
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永遠に生き通しの霊的生命

 
 子どもを授かった喜びと、家族や周囲の方々から祝福を受ける中で、死産や流産をされることは、どれほどの悲しい体験であることか。自責の念や後悔の想いで心が縛られるのは自然な状態であり、その想いはそっと包んでおくべきものです。だからといって、心が悲しみの感情に縛られたままでは、いつまでもその悲しみを癒やすことにはなりません。

 生長の家は、「人間の本当の姿は神の子で、永遠に生き通しの霊的生命であり、肉体そのものではない」と説き、真実の生命においては、誰かを傷つけることも、自身が傷つくこともない完全な存在であると教えています。そして、この五官で捉えている世界は、心によって表現された仮の世界であり、様々な体験を通して魂を成長させていく世界だとしています。

 ですから、流産児供養において何よりも大切なことは、まず第一に自分自身が完全円満な神の子であり、神において完全に罪無き存在であることを心で認めて、尊敬し讃えることなのです。そして、心が悲しみに満たされていてさえも、自らの生命の内には、神様の愛の光が燦然と輝き続けている真実を実感することです。

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流産児の生命を礼拝する

 
 この自分自身の尊き神の子の生命を礼拝する安心と悦びの中から、永遠なる流産児の生命を礼拝する悦びと、安らかな慈しみの想いが、自然に溢れて来るのです。

 “悲しみ”を“輝無(かな)し”みと表現している生長の家の書籍もあります。ですから、まず「我、神の子なり!」と光り輝くことから出発し、生命を礼拝して尊敬し、讃嘆し、決して離れることのない“永遠なる家族の愛”に、魂の底から感謝の祈りを捧げることこそが、真の流産児供養であるのです。
 (清水志郎・生長の家本部講師)